D—血闘譜 〜吸血鬼ハンター16 菊地秀行 [#改ページ] 目次 第一章 よお、兄弟 第二章 裁きの場へ 第三章 谷間の妖人(あやしびと) 第四章 気高き夫人の館 第五章 死の約定 第六章 誰もいない 第七章 明日への可能性 第八章 五千年の怨念 第九章 被告席の貴族 あとがき [#改ページ] 第一章 よお、兄弟    1  刀身は抜き放たれていた。  中天に昇った光の粋をそこに集めて、待つのは血しぶく瞬間《とき》であった。  五条。  対して、迎え討つべき一刀は、なお弦月のごとき鞘の中に収まっていた。 「何故、抜かん?」  緊張の漲《みなぎ》る声で訊いたのは、五人組のリーダーらしい隻眼の戦闘士だった。  ヘルメット、肩当て、手甲、合金ベスト、防脚帯——どれもがくぼみ、焼け焦げ、ひび割れや切断部を溶接した痕が生々しい。  その傷痕にふさわしい不敵な面構えの中で、左の電子眼のみが、五メートルほど前方に素手で立つ黒影を、肉眼とは異なる非情なデータとして脳へ送りこんでいる。  見よ。  場所は北部辺境区第九セクター内、サトリ村の郊外——マキューラ城の遺跡。  周囲を取り巻く十重二十重《とえはたえ》の人垣は、サトリの村人はもちろん、近隣のエルク、タビ、フォーラン三村の住民や、服装から見て村の教師と思しい連中、旅人、酒、煙草、刀槍、薬、人造肉、機械修理等の行商人、酒場女、売春婦と売春夫、旅芸人の一団、賭博師、無法者etc etc。  辺境の村といっても、恒常的に連日連夜、斬り合いや射ち合いが起きるわけではない。ひと度勃発すれば、それ故、村中の人間が家や店舗に鍵をかけて駆けつける。  だが、それにしては、職種が多すぎる。まるで何日も前にやって来て、この地に留まっていたようだ。その証拠に、人垣の背後には、晩秋にふさわしい焼キノコ屋や干し肉屋が軒を並べ、定番の串焼き屋、辺境菓子屋、七色豆屋もずらりとけばけばしいイラスト付きテントで、広い道の両側を飾っている。まるで、祭りの日の参道だ。現に、人垣の中には飴ん棒をかじりながら眼をかがやかせている子供や、シロップ入り薬草酒の紙コップを手にした父親たちの姿も見える。  小体《こてい》な露店商たちが店を並べはじめたのは二日前だが、人々は三日前からサトリ村へと参集し、その原因はというと、四日前に遡る。 「抜け」  と、男たちのひとりが促した。  巨大な肉団子を組み合わせて手も足も胴も顔もこしらえたような巨漢だ。何もかも丸まっちく、頭にも手足にも見事なくらい一本も毛というものがない。  それでも相手が、冬の日の下に忽然と生じた人型の影のように佇立《ちょりつ》しているのを見て、今度は哀願口調になった。 「なあ、おい、抜けよ、抜けってば抜いてくれ。でないと斬り合いができんじゃないの」  心から困り切った様子に、ようやく相手が応じた。 「来い」  と。  右手が上がって柄《つか》にかかるや、虹色の光を引いて刀身が抜かれた。その光の美しさよりも、手を上げてから抜き放つまでの若者の動きの精緻さと迫力とに、どよめきが湧き上がった。 「糞ったれ」  と別のひとり——いかにも戦闘士らしい筋骨たくましい大男が、呆れたとも怒り狂ったとも取れる声で罵った。どんぐり眼で鼻は胡座をかき、前歯が大胆にせり出している。なるほど、 「ひとりで目立ちやがって。許さん」  じり、と長靴を進めるのへ、 「待て、おれにやらせろ」  と若者の右横に立つ若者が言った。いちばん小柄だが、武器が変わっている。左手の甲から前方へ五〇センチも突き出た鉄鉤——俗に言う“手甲鉤《てっこうかぎ》”だ。  並みの造りの剣は、大体四人を斬ると血脂肪《ちあぶら》が乗って役に立たなくなる。その点、鉄製の手鉤を四本並べた“手甲鉤”は、その猛禽の爪のごとき先端で敵を裂き、多少の脂肪では裂き味が鈍らない。 「いいや、おれだ」  と、でぶが言った。 「いや、おれだ。色男は許せねえ。何度、煮え湯を呑まされてきたと思ってるんだ」  リアルな話にしたのは出っ歯の戦闘士だ。 「うるせー。親爺どもが邪魔するな」  身を震わせて叫ぶや、手甲鉤の若者が地を蹴った。凄まじいジャンプ力で五メートルを一気に跳び越し、頭上から凶器をふり下ろす。  世にも美しい響きを上げて、若者は跳ねとばされていた。全く同じ軌道を通り、跳躍地点に戻ったのは、奇現象とさえ言えた。  驚愕の叫びが見物人の間から噴き上がり、戦闘士たちが顔を見合わせた。 「まとめて来い」  若者が言った。打って変わった嗄れ声である。一瞬、表情を歪めたが、 「次はおれだ」  無毛のでぶが突進した。  てめえ、また、と出っ歯が歯を剥いたところを見ると、抜け駆け専門らしい。  大地を揺るがせながらの突進は、愚者としか思えぬ猪突猛進であった。 「阿呆か」  と嗄れ声が吐き捨てるや、若者の刀身は、でぶの太腿を貫いた。  異様な手応えが伝わった。確かに刀身はめりこんだにもかかわらず、肉と脂肪を貫く感触はなかったのである。ゴムの塊を棒で突くのに似ていた。 「うがががが」  でぶは激突した。  若者の前面は顔から膝まで白い肉にめりこんだ。  この瞬間、おお、と叫んだのは見物人ではなく、四人の戦闘士だ。でぶの突進に耐えた者はなかったのだ。  わずかに後ろ足を引いただけで、若者は姿勢を崩さなかった。  しかし、このままでいては、餅を喉に詰まらせた老人のように、待つのは窒息死だ。現に、でぶは丸まっちい両手で若者の背を抱きしめた。  同時に、その顔がぐいと仰向いた。若者の左手が顎を押し上げたのだ——と人々が認めた瞬間、生白い巨体は凄まじい勢いで後方へ吹っとんでいた。  人垣の一歩手前——八メートルも向うで大地を揺るがせるまで、戦闘士たちは次の攻撃を忘れ果てた。 「よっしゃ、おれの番だ」  と出っ歯が長剣をひとふりした。若者の膂力《りょりょく》に対する驚愕は、歓喜に変わっている。若者と戦えることが心底嬉しいのだ。 「お待ち」  と、ひと声かけた者がいる。  最後のひとり——五人目の戦闘士だ。  燃えるような紅毛《あかげ》の下で、白い美貌がこれも闘志を燃やして若者を見つめていた。  女としてどんな幸せな人生でも送れそうな美貌の主が何故こんな——誰もが思った。いや、女をひとめ見たときから、ずっと思っていた。  そして、いま納得した。  世にも美しい若者へ、少しの弛緩もなく注がれる殺気。すらりと抜いた一刀の構えの凄まじさ。この娘——他の誰よりも強敵なのではあるまいか。 「ほお」  と嗄れ声が感嘆の声を上げた。 「こりゃ驚いた。この姐ちゃんは強いぞ」  女が思いっきりのばした剣をゆっくりと肩の高さまで上げた。左手は鉤形に上へと曲げている。  すでに女の刀身が剣としては異様に細く真っすぐなのに気づいていた人々の眼前で、それは躍った。  女が突いた。それは同時に十数条の突きに見えた。のみならず、光条のすべてが三メートルも離れた若者を貫いたではないか。  だが、人々は息を引き、驚きの声を上げたのは女の方であった。  若者には傷ひとつなく、女の剣尖《けんさき》も、貫く肉の手応えは伝えてこなかったのだ。  黒衣の美青年の動きは美女の剣速を凌いだ。貫いたと見えたのは幻像であった。  怒りが柳眉を吊り上げた。吹きつける殺意は炎と化した。人々はその瞬間、女の運命を悟った。これしかない、と。  女が前進した。  その前に、ずいと長身の影が割って入った。隻眼のリーダーであった。 「邪魔よ、帝王《ミカド》」  女の憎悪は仲間に向けられた。 「ここまでだ。おまえに勝てる相手じゃない」 「——どういう意味よ?」 「わかっているはずだ。仲間を無駄死にさせられん」 「やってみなくちゃわからないわ」 「デリラ」  隻眼が美女を映した。燃えさかる敵意が、ふっと消滅した。 「よく見ておけ」  言い置いて、男——帝王の腰が鞘鳴りの音を立てた。 「帝王!?」  手甲鉤の若者が喘ぐように言った。  ようやく立ち上がったでぶ[#「でぶ」に傍点]も、茫然とうなずいた。 「帝王が抜いた」  その声は甲高くさえ響いた。世界は沈黙していた。  帝王の刀身は地に触れるほど低く、対して若者の刀身は右青眼。 「ほお」  嗄れ声が聞こえた。帝王の剣が上段に上がりはじめたのだ。  同時に、その顔が蝋のように白々と変わっていった。  何かが起きる。ただならぬ何かが。  誰もが予感し、息を呑んで待った。  若者は動かない。  冬の聖夜のように。  不意に帝王が刀身を下ろした。みるみる顔に血色が戻っていく。申し合わせたように、汗のすじが頬を滑り落ちた。 「死ぬにゃあ早すぎる」  帝王の喉が、もうひとつの嗄れ声を放った。血を吐く——どころか、瀕死の声である。  茫然と立ち尽くす仲間たちの方を向いて、 「——というわけだ。相手が悪い。ここは退《ひ》くぞ」  どよめきが見物人の間を渡った。安堵の印だった。  帝王は若者に向き直った。すでに刀身を収め、背中を向けている。 「待ってくれ」  黒衣が停止した。 「なぜ、おれたちを斬らなかった。刃を向けた相手を見逃すような玉じゃねえだろう、あんた」  若者はまた歩き出した。  たくましい背が言った。 「なぜ、ひとりずつかかってきた?」  帝王と男たちの顔に、何とも言えぬ表情が吹き過ぎた。 「名前を教えてくれんか?」  と帝王が言った。 「おれは帝王、女がデリラ。太っちょが頓《トン》で、チビ助が猿羽《えんば》、一番らしいのがガリルだ」  返事はすぐにあった。 「D」  五人の顔色が変わった。 「あんたが——」  誰かが言った。或いは、みなが。  それきり、ある方角へと歩き出した若者の後ろ姿を、戦闘士たちは無言で見送った。  その身体を風が吹き過ぎたが、運ぶべき殺気はすでに絶えていた。    2  Dが足を止めたのは、広場のほぼ中央にそびえる直径三メートルほどの黒い球体であった。  陽光を撥ね返す表面の艶びかりで金属製と知れる。  その周囲に広がる石垣や円柱、塀の痕を見てもわかるとおり、この広場一帯は貴族の遺跡——マキューラ城址だったのである。  六日前、この地方を大地震が襲い、大きな被害をもたらした。地盤沈下、山崩れが頻発し、さらに五日前の豪雨が、それにとどめを刺した。  山肌は崩れ、濁流に押し流され、もとは狭隘な広場にすぎなかった一角は、十倍近い広大さを持ったのである。  そして、押し流された数千トンの土砂に守られていた小さな歴史——眼前の黒い球が土中から出現した四日前に、すべてがはじまったのだ。  まず、被害調査に来た村役場の者が見つけ、サトリ村全体、さらに旅人や商人の口から伝播するには丸一日あれば事足りた。  貴族の遺物だ。それも極上の。  その形状が何処かユーモラスなのも手伝い、勇を奮って近づき、触ったり叩いたりした人々が無事だったのも、騒ぎに拍車をかけた。  村人が鍬、鋤をふるい、鍛冶屋がガスやレーザー・バーナーの炎を向けたが、球体はびくともしなかった。十万度のビームを照射し、すぐに手を当てても、球体は冷え冷えと陽光を撥ね返していた。  何で出来ている? から、これは何なのか? さらに、内部に何かあるのではないか?——辿り着くまでは、あっという間であった。  そして、この疑問を期待と欲望の熱泥に変えたのは、一昨日、近隣の「学校」からやって来た物理の教師が、丸半日かけて、宿の部屋の壁と床を埋め尽し、ついには広場の地面にまで書きこんだ計算の結果、 「この球の中には、何かがある」  と断言した瞬間であった。  何かがある?  それは貴族の宝石か貴金属か、不老不死の血の方程式ではないのか?  人々は両眼を血走らせ、夥しい涎まで垂らして、球体の破壊を試みた。銃撃した者もダイナマイトを仕掛けた者もいた。だが、あらゆる試みも、いつ転がり出してもおかしくはない完全な球を一ミリたりとも動かすことはできず、いたずらに時間のみが過ぎた。  人々の狂気じみた欲望には理由がある。  貴族たちの居城やその遺跡、遺構は、辺境の何処にもたやすく見つかる。  とりわけ、北部辺境区には多く、そこから発掘乃至発見される遺物は、「都」の政府や地方の好事家《こうずか》に高額で買い取られては、村や個人の懐を大いに潤すのであった。  印章付きの指輪、刀剣、衣裳、彫像、肖像画等が、億単位で取引されるとなれば、村としても既得権を守らざるを得ない。  村の敷地内の遺跡は厳重に囲い、看視をつけて調査を開始する。だが、その多くは単なる廃城にすぎず、やがて人々の熱も醒め果てて、草茫々の荒れ地を飾る古代の夢と化すのだった。  それなら話は簡単である。サトリ村の所有物として、四日の間に処置すれば済む。  ところが厄介な問題が生じた。  この広場はサトリ村と隣村の境界にあたり、協定によって、ここ五百年、どちらの村の所有でもないと定められていたのである。  隣村の抗議は凄まじいものがあった。暴力的とさえいえる恫喝にも、サトリ村が無視を決めこむや、戦闘士の集団を雇って、実力行使に出たのである。  対して、ほぼ同時期にサトリ村が雇い入れたのがDであった。  かくて両者は、謎の金属球の所有を巡り、刃《やいば》を交えたのである。  球体の前に立つDの下へ、人垣を破って数人の男たちが駆けつけてきた。  サトリ村の役人たちである。ひとりの胸には錫《すず》のバッジ——治安官である。 「よくやったぞ、さすがだ」  と、口髭の痩せた男が揉み手した。村長である。 「これで、この球はうち[#「うち」に傍点]の物だ。周りに博物館でもぶっ建てて、大いに宣伝するとしよう。こら、触るな」  Dは左手の平を黒光りする表面に乗せていたのである。 「無駄じゃよ」  嗄れ声が嘲笑した。  広報役が怒りとも驚きともつかない困惑の表情になったのは、確かにDの放った声なのに、Dのものとは到底考えられなかったからだ。 「おまえか? どういう意味だ?」  と詰問も力がない。  Dが左手を離して、 「内側に人がいる」  と言った。  村長と取り巻きたちは凍りついた。世界も凍りついたような気がしたに違いない。 「冗談じゃないだろうな」  治安官がまず正気に戻った。たくましい体躯、剛毅そのものの顔立ち——信頼度抜群の男だ。肝っ玉も太いらしい。 「面白い話をしてやろう」  と嗄れ声が言った。 「昔むかし、尾も白い犬がおったとさ。はは、はは——ぎゃっ!?」  Dは左手を握りしめて、 「保護していた岩盤が崩れると同時に、覚醒メカニズムが作動したらしい。じきに出てくる」  冷たく低く——美しい鋼《はがね》を思わせる声だ。  その内容を理解する前に、一同は陶然と聞き惚れた。  たちまち正気に返るや、 「じきとは、いつだ?」  と村長が喚いた。一発で信じられぬ事態を信じさせてしまうDの声音《こわね》と口調であった。  とんでもないことをDは言った。 「一分後」  青天の霹靂ともいうべき宣言であった。誰もが内容を理解し、そのくせ理解しきれずにお互いの顔を覗き、Dを見て恍惚となり、それから前方の黒い物体へと視線を注いだ。  声は失われた。  降り注ぐ陽ざしの音さえ聞こえそうな沈黙の中で、一同は待ち受けた。 「あと十秒」  と誰かがつぶやいた。  後は言わずともわかった。  五秒——  物体の天頂から底まで、四すじの線が走ったのを人々は見た。  Dの指摘が正しければ、中味は貴族か。  それならば、現われた刹那に、燦々たる陽光が彼を塵へと変えてしまうのではなかろうか。或いは、伝説の——歴史の闇の奥から吹き渡る風が、切れ切れに伝える魔性、陽光の下をも歩む大貴族の復活か。  人々の想いを物体は無視した。  そのとき——ゼロ。物体の天頂から凄まじい唸りとともに白煙が噴き上がった。それは蒸気であった。Dのみを残して、悲鳴を先頭に人々は後退した。  鋼鉄の蕾——誰もがそう考えた。  四枚の鉄の花びらがゆっくりと開き、内側に、おお、なおも溢れる蒸気を通して、黒い人影が見えた。  陽光は燦々と降り注ぎ、しかし、影は苦鳴《くめい》も洩らさず苦悶もしなかった。それどころか、薄れゆく白い靄《もや》の奥で、 「あーあ」  はっきりと、両手を上げてのび[#「のび」に傍点]をするのが見えた。 「き、貴族か?」  と村長が訊いた。 「そうだ」  とD。雇い主の問いには答えねばなるまい。 「すると……すると……陽の下を歩く貴族……我々は昼も脅えねばならんのか?」 「そうなるな」  村長はぎょっとDを見つめた。さっき耳にした嗄れ声だったからだ。 「捕まえろ」  と村長が、ささやくように言った。 「捕まえてくれ。こいつはいい見世物になる」  いまや鉄の花弁は完全に九十度まで開き、その奥に得体の知れぬメカニズムの集合体と、長椅子様のものから起き上がった黒い毛皮で覆われた姿が立っていた。 「マキューラ男爵か?」  とDが訊いた。  どよめきが上がった。この美しいハンターは、誰も知らない古代の貴族の名前さえ知悉《ちしつ》していたのか。よく考えれば、マキューラ城址の名がある。城主の名を連想するのは可能だ。だが、それもできぬほど、人々はこの美しい若者とその行為に心を奪われていたのである。  同時にもうひとつの疑問が、人々の脳裡に揺曳《ようえい》した。  ひょっとしたら、このハンターにとって、今日の怪事と貴族の出現は既知のことだったのではないか。  だが、その疑問は、Dの質問に続いて放たれた、狭霧《さぎり》の彼方からの返事に霧消してしまった。 「そうだ」  重々しい声である。 「おれはD。ハンターだ。一緒に来てもらおう」 「やだね」 「え?」  と聞き返したのは、村長と治安官である。恐るべき貴族の第二の返答は、初回とうって変わった軽いものだったからだ。 「おやおや」  とDの左手のあたりで嗄れ声が楽しそうにつぶやいた。 「意外な事態の勃発かも知れんぞ」 「風を出せ」  低くDが言った。  突如吹いた突風が、世にも美しいハンターの左手から迸《ほとばし》ったなどと、誰が信じられたろう。  わずかな蒸気は吹きとばされ、陽光の下に、花から生まれた貴族は、その全身をさらした。  地鳴りにも似たどよめきが空気を震わせた。    3  彼の立つ位置は地面より五〇センチほど高かった。そこから、よいしょと大儀そうに左足を下ろし、靴先が地面に着く——その寸前で足は止まった。  何かを憶い出した、というのではない。単に、物理的に届かないのである。  片手を花びらの縁にかけ、男はどたばたしていたが、ついに諦めた。 「下りるぞ」  と居丈高に言った。それから小さく、 「手を貸さんか、莫迦者《ばかもの》」  と罵った。  人々が連想したのは、木を下りる途中で足を滑らせ、下には巨大な肉食獣が待っている熊の子であった。  それくらい、恐るべき貴族はずんぐりしていたのである。身長は一五〇センチもない。頭のてっぺんから爪先まで、剛毛としか思えぬ黒い毛皮で覆われている。見物人たちが心底から、おおと恐怖の呻きを洩らしたのは、その顔が悪魔を模したような青銅の仮面をつけていたためだ。作りものとひとめで知れて、作りものでは済まない辺境の人々であった。 「手を貸せ」  と、そいつは野太い声で喚いた。 「下りられん」  村長の命を受けて——というより背中を押されて——役場の人間らしい二人の男が、こわごわ前へ出たが、その間に熊男の気分は変わっていたらしい。  もっこりとした腕をのばして、 「そんな不細工な人間どもに、貴族の身体をまかせてたまるか。おい、そこの——おまえ来い」  と、さし招いた相手を見て、一同、またもどよめいた。  黒衣の美青年だ。気持ちはわかる。だが、彼はハンターではないのか!? 「何をしている? 手を貸さんか」  熊男の傲慢な口調が、ややトーンダウンしているのも、そのせいか。  Dが前へ出た。三度、どよめきが上がった。  それは消えずに人々の間を伝わり、Dが熊男の手を取って荒っぽく地面へ放り出したとき、氷の戦慄と化した。  熊男は一回転して背中から地へ落ちた。 「ぐええ」  みっともない苦鳴が上がった。貴族の苦しみがどのような怒りに変わり、人間たちに降りかかってくるか——遠い伝説は、なおも人々のDNAに恐怖の記憶を、血の鑿《のみ》と戦慄の鏨《たがね》とで刻印しているのである。  だが、だらしなく地べたへ大の字になった熊男は、少しの間、うんうんと唸ってから、百歳の老人みたいにのろのろと起き上がった。 「糞ったれめ。後で吠え面をかくなよ」  呪詛《じゅそ》もありきたりだし、腰を打つ仕草も、どこか—— 「爺臭いわねえ」  という声が上がったほどである。  どうやら、恐怖と期待が大き過ぎたというか、どこか根本的に間違っているというか——見物人の胸の中にはこういう考えが兆しはじめたのだが、やはり相手は貴族だ。恐怖のこわばりは顔から消えたものの、それ以上近づくこともせず、人々は遠巻きの形を保っている。 「よっこらしょ」  こいつ田舎のおっさんではないのか、と思わせる掛け声をかけて、熊男は腰をのばした。  蒼天を仰ぎ、短くて太い両手が万歳の形を取る。 「おお、いい天気だなあ。五千年ぶりの太陽だ。ちっとも変わっておらん」  楽しげに放ってから、二秒ほど間を置き、じろりと取り巻きを睥睨《へいげい》して、 「何だ、貴様らは?」  と訊いた。  青銅の仮面の中に、眼球ひとつ見えなかったが、人々は、ざわ、と後ろへ下がった。 「何を見物している? 見世物じゃないぞ」  村長がDを見た。貴族との会話のとっかかりを作って欲しかったのである。しかし、黒衣の美丈夫は物言わぬ像のごとく佇立したままだ。村長は諦め、咳払いをひとつした。それは、巨竜の咆哮のごとく一帯に響き渡った。沈黙はそれほど深かったのである。  あらためて自分の立場の凄絶さを自覚するにいたったか、村長は胸にごつい手を当て、呼吸を整えてから、必死に恐怖を抑えて、 「わしは、この近くのサトリ村の村長だ。おめえは誰だ?」  と訊いた。声は無惨に震えている。  ただし、彼の脳には二つの思いが混在していた。  まず、陽の下を歩く貴族——これまで伝えられている貴族に輪をかけた超怪物ではないか。  さらに、陽の下を歩ける貴族などあり得ない。これまでの言動からして、こいつはただのカタリではないか。  後の方だったら、ただではおかん、と村長は腹を据えた——つもりだったが、やはりうまくいかなかった。  仮面がこちらを向いた。 「何を抜かすか、農民風情が!」  いきなり怒号の大風が襲った。村長は硬直した。 「貴様、この辺の村長と抜かしたな。それでいて、わしの名を忘れたのか? えーい、群小の田舎貴族どもが闊歩する北部辺境区に冠たる大貴族マキューラ男爵の名を?」 「そ、それは、知っとるだ」  村長はようよう言った。血の気の失せた顔は蝋人形である。 「だども、男爵は五千年も昔に死に絶えたと聞いてただ。まさか、いま頃んなって出てくるとは……」 「愚者め莫迦め唐変木め。死に絶えたなどと誰が告げた。誰が見た。わしはここにおる。わが領地を一歩も出てなどおらぬわ。わしは、ある崇高な目的を持って、ここに隠棲したのだ。ただ、少々、くつろぎ過ぎたがな」 「す……すうこうな目的とは……何だ?」  熊男は、け、と吐き捨てた。 「大貴族の脳は宇宙に等しい。大宇宙の遠大無限な考えが、地を這う虫けらどもにわかってたまるか。失《う》せい」  ぶん、と手がふられ、人々は後退した。 「だども……おめえは……陽の下を歩いとる……きき貴族のわけがねえ!」  村長の必死の抗弁であった。  返事は哄笑——否、侮蔑の嘲笑であった。 「がはははは。おまえたちはまだ、そのような固定観念にとり憑かれておるのか? おお、おお、それでは、わしが眠りについてから五千年、相も変わらず闇を怖れ、陽が落ちれば村の門や家の戸を閉ざし、妖物どもの声ひとつにも震え上がって、寝入らず夜を明かしておるのか。短い人生の半分は夜だぞ。それを丸々、古臭い、理由もない固定観念のために捧げおる——なんとまあ、救いようのない輩だ。がはははは」 「だども……貴族はみな……そうだ」  ほとんどうわごとのように、村長は言い張った。これが意外な効果を上げたのである。  熊男——マキューラ男爵の笑いがぴたりと熄《や》んだ。  青銅の口が、何? とつぶやいた。それから、 「貴族が陽の下を歩けん、と? まさか。おい、冗談ではあるまいな。貴族はいまだ、夜の闇の中でしか生きられぬ存在か? まさか」  仮面の声には、心底からの驚きと動揺が渦巻いていた。その悲痛さにつけ入る前に、村長は声を失った。 「貴族はなお夜の生きものだ」  鋼の声が全員をふり向かせた。 「みなぎる陽光は、なお、おまえたちのものではない。一緒に来てもらおう」  その刹那、丸まっちい身体は、Dのかたわらから一〇メートルも飛びずさった。よく弾む毬《まり》のような現象であった。 「おまえはどうやら、我らの血を引いているらしいが、ダンピールというやつか。何たる殺気——わしを滅ぼすつもりだな?」  答えず、Dが前へ出る。 「おーっと」  丸っこい身体がまたもぽーんと跳ねて、人垣の前に辿り着いた。悲鳴を上げて人々が後じさる。  もう一回——今度は人垣の向うへ。  ごお、と風が唸った。  宙に舞う男爵の身体を捕獲し、あららららと逆行させる。  Dは左手を上げていた。その手の平に浮き出した小さな口を、口と認めた者はない。  凄まじい吸気が途切れると同時に、男爵の身体は、どでんとDの足下に落ちた。 「いてててて」  と腰を押さえる貴族へ、さすがにDが、 「他に取り柄はないのか?」  と訊いた。呆れ果てたのである。 「舐めるな、いてて」  と男爵は地面からDを睨みつけた。 「わしは貴族だが平和主義者だ。この土地で平和に学究の生活を送っていた。戦ったり守ったり逃亡したりの小道具は必要なかったのだ」 「その飛んだり跳ねたりは何だ?」  とD。 「これは、趣味用の身体能力だ」 「趣味?」 「格闘技だな」  どう見ても、肉弾戦向きの体型だとは思えないが、Dは無言で、 「今度は斬る」  と言った。男爵は顔中に怯えを溜めて沈黙した。のみならず、取り巻く人垣も満面蒼白となった。Dが本気だと察したのである。 「ふん、好きにせい」  男爵がようやくふて腐れた声を出すまで、数秒を要した。  光が走った。人々が見たのはそれだけであった。  眼をしばたたくと、青銅の仮面は、男爵の足下に落ちていた。二つに裂けている。だが、裂けたのを見た者はいない。  何ともいえないどよめきが人々の間を巡った。それはDの手練に対する驚愕であり、やっぱり、という納得であり、でも、まさか、という茫然の表現であった。仮面の下の顔は、正しく、人々が想像したとおりだったのである。  すなわち、丸い卵型の顔に、炭みたいな太い眉、悪知恵にかがやく細い眼、団子鼻といまにもゲロと鳴きそうな分厚い唇。そのくせ誰にも否定できない愛敬みたいなものが漂っているのは、三重顎のせいかも知れない。  あちこちで吹き出す声が上がった。そちらをじろりと睨《ね》めまわし、 「文句があるか?」  と男爵が凄んだ。  Dは村長の方を向いた。満足そうな老人の顔が、みるみる薔薇色に染まった。 「こいつが出てきたメカを保存しろ」  と村長は言った。 「現役の貴族が隠れていたポッドだ。百年間は観光客が訪れる。内部のメカには手を触れるな。危ない」  それから、Dの方を向き直って、 「貴族が相手では、治安官も役に立つまい。役場まで連行してくれ。そこで金は払う」  うっとりと微笑みかけた。気色は大分、悪い。 [#改ページ] 第二章 裁きの場へ    1  役人ふたりを先頭に、Dとマキューラ男爵、村長、治安官の順で村の端まで辿り着くと、村長が素早く前へ出て、 「ここでよかろう」  とそっぽを向いて言った。 「ご苦労だったな、D」  彼はサイボーグ馬の鞍に引っかけていたサドルバッグから布袋を取り出すと、Dへと放った。 「数えてあるが、足りなかったら言ってこい」  横柄な口調であった。 「ほう、ここでお払い箱かの?」  Dの嗄れ声に、村長と治安官は妙な眼つきで手綱を掴む黒い手を見つめた。左手である。 「そういうことだ」  と治安官が重々しい口調で言った。威圧しているつもりだろう。 「おまえの役目は終わった。後はまかせて去れ。我々の村に、貴族との混——貴族の血を引く輩は不要だ」 「あんたたちだけで、そいつ[#「そいつ」に傍点]をおとなしくさせておけるかね?」  マキューラ男爵は、見物人から調達したサイボーグ馬の上で、興味深そうに天地を眺め廻している。役人たちが左右を固めていた。 「余計なお世話だ」  と治安官は吐き捨て、村の方を向いた。D以外の全員が後につづき、 「村へ入るのは勝手だ。だが、もう我々とは何の関係もないぞ。そのつもりでいろ」  村長のひとことを合図に、黒い騎馬は陽光の下に取り残された。  砂塵と蹄の轟きが去った後、 「どーする?」  と嗄れ声が訊いた。 「気に入らん野郎どもじゃ。村に火でもつけていくか?」 「馬に餌をやらねばならん」  答えたときにはもう、Dは前進を開始していた。  馬屋へ行くと、レーザー・バーナー片手の親父が、すぐに透視像を撮り、 「脚の膝関節が全部イカれてるな。それと、エネルギーの外炉隔壁と流体循環装置の消耗が凄い。——いつ替えた?」 「馬ならひと月前だ」  Dの返事に、親父は眼を剥いた。 「馬ごとか!?——おい、百年間休みなくジャンプさせてなきゃ、こうはならねえ。ただの客なら、馬をこんな風に扱う輩は、とっとと出てってもらうところだが、ここまでひでえ[#「ひでえ」に傍点]と性格の問題じゃなさそうだ」  Dの顔を見つめる髭面は、すでに朱く染まっている。 「おまえさん——ダンピールだな?」 「そうだ」 「わかった」  親父は馬の手綱をDの胸に叩きつけた。 「悪いが、貴族の血を引く奴の馬の世話はできねえな。とっとと帰ってくんな」  その胸が凄まじい音をたてた。百キロ近い巨躯《きょく》が、サイボーグ馬の足下に尻餅をついた。  叩きつけ返した手綱を眼の隅に留めながら、蒼白の親父へ、 「馬は血を引いていない」  Dは静かに言った。それだけで、親父はうなずいてしまった。胸骨まできしんでいる。レスラーの張り手に近い打撃だったのだ。 「頼むぞ」  言い置いて、Dは外へ出た。  ちょうど、数騎の人馬が馬屋の前に停止したところだった。 「よお」  馬上から親しげな声が降ってきた。  帝王《ミカド》であった。見覚えのある顔が見下ろしている。 「また会ったな、D」  馬から下りて戦闘士たちは美しい若者を取り囲んだ。  Dが身構えもせず、殺気も感じさせなかったのが不思議である。 「あんたのパワーにゃまいったぜ」  太っちょ——頓《トン》が黒い肩を叩いた。全員、破顔している。 「このおれが、力で兜を脱ぐ男ははじめてだ。ところで、これから予定はあるのかよ?」 「いや」 「おれたちを追っ払った男に、一席も設けちゃくれねえのか——冷てえ村長だな」  これは猿羽《えんば》である。 「おれたちと一杯飲らんか?」  と帝王が訊いた。 「あ、それ、いい」  デリラが手を叩いた。  Dは動かない。自分に敗れた男女の反応が理解できない——というのではなく、慣れていないのだ。 「そんな野郎、放っとけ。おれたちと行こうぜ、兄弟」  にこにこ顔で言う頓に、 「そうだ」  とガリルが同意し、帝王がうなずいた。 「ひとつ、パーッと行こうや」  辺境の村の呑み屋は、例外もあるが、昼間から開いている。夜の灯りは、闇夜を飛翔する妖物に獲物がいると教えているようなものだからだ。  それに呑み助は昼夜を選ばない。  奥の一室を借りて、酒盛りがはじまった。  Dの右には頓、左隣には猿羽が坐った。Dを見るどちらの眼にも畏敬の光がある。彼らは全力を出し切って敗れたのだ。 「まあ、一杯いこう」  グラスに注がれたワインをDは淡々と呑み干した。頓が眼を丸くして、 「いけるねえ、兄弟。こいつぁ辺境一のアタピンでよ。たいていの酒呑みは、ひと口でひっくり返っちまうんだが、さすが、おれたちを吹っとばした男だ」  にやにやしながら、自分も一杯くいっと空け、 「ふーむ」  猿羽が素早くその口もとへライターの火を近づけた途端、ごお、と炎の舌が伸びた。吐息に引火したのである。次の瞬間、彼は椅子ごと後ろへひっくり返っていた。自分の吐いた炎に仰天したのである。猿羽は嘲笑した。 「なんでえ、でけえ図体してだらしがねえ。よっしゃ、D、おれと呑み比べしようぜ。喧嘩じゃ負けたが、酒なら別だ」  テーブルの瓶《ボトル》を掴んで、どんとDの眼の前に置いた。 「宗教団体みてえにチビチビ飲ってちゃ、埒が明かねえ。さ、こいつでいこうや。まずはおれからだ」  自分の瓶をひっ掴むや、いきなり喉を鳴らしてぐびぐび[#「ぐびぐび」に傍点]飲りはじめた。  半分ほど一気呑みしてから、Dの瓶を指さし、 「さっ、D——おめえの番だじょ」  言うなり、ひっくり返ってしまった。 「これで終わりかの?」  嗄れ声が小さく尋ねたとき、燃える髪が左から移ってきた。 「何よ、だっらしないわね。その程度で、一人前に呑み比べなんかするンじゃないわよ」  すでに、髪の毛と同じ顔色に化けたデリラである。床でのびてる猿羽を荒っぽく蹴りとばし、彼の席に着くと、 「D、あたしのも受けて」  二本目を並べた。 「挑戦が好きな連中だの」 「——何か?」 「いや」  と応じて、Dは瓶を手に取ると、無造作に口に当て、一気に傾けた。  おい、とガリルが立ち上がって、 「危《やば》いぞ。脳が灼ける」  ひとり、黙然と一部始終を眺めている帝王の眼にも、驚きの光があった。  五秒ほどで、Dは空瓶をテーブルへ戻した。 「平気なの?」  茫然と尋ねるデリラに、 「見てのとおりだ」 「しょのとおり」  テーブルの端から猿羽が顔を出した。テーブルに掴まって上体を起こしたのである。顔は青ざめ、眼がすわっていた。 「何さ、寝てなさいよ」  と罵るデリラを、にんまりと見つめ、 「おみゃえ、こにょハンヒャムを口説くつもりだろ」  顔の真ん中を指さして喚いた。 「何よ、この酔っ払い。おかしなこと言わないで」  デリラが歯を剥いたが、猿羽は一切、耳を貸さずに、 「男を口説くにょに一杯飲らせるにゃら、おみゃあも飲まなきゃいかんぞー」 「うるさい」  いきなり瓶が上がると、猿羽の頭の上で鈍い音をたてた。石なみの頑丈さを誇る高分子ガラスだから、割れも砕けもしないが、猿羽はまたもひっくり返ってしまった。 「酔っ払いが」  吐き捨てたデリラの席に、どんと瓶が音をたてた。 「え?」  碧い瞳が黒衣の美丈夫を映した。 「お互いさまということだ」  一瞬、怒りに似た表情が美女の顔をかすめたが、すぐにため息をついて受け入れた。  瓶ごと持ち上げ、Dを見つめた。 「これひと瓶呑んだら、あたし死ぬかも知れない。死ななくても、一生、タリラリラーンの運命かも。そうなったら——」 「一生面倒みてくれというのか? みっともない真似を——」  ガリルが唇を歪めたとき、 「ひと晩だけ抱いて」  海底のような沈黙が部屋に満ちた。  次の瞬間、大爆笑が海水を煮えくり返した。 「おめー、デリラ、リアルな顔すンじゃねーぞ」  頓が感電したように身を震わせた。 「嫌だっていう男をさんざか抱いてきたのは誰だ?」  これはガリルである。さすがに苦笑を浮かべている。 「うるさいわねえ!」  とデリラがふり向いて叫んだ。 「冗談に決まってるだろ。いちいち騒ぐな、バーロォ」  これまで呑んだ酒のせいか、真っ赤な顔で歯を剥くのへ、 「わかった、わかった」  と帝王がなだめるようにうなずいた。 「おまえの最期はおれたちが看取ってやる。女に[#「女に」に傍点]なってこい」 「ありがと——見てらっしゃい」  一気に瓶を咥えて傾け、みるみる喉を上下させて、三分の一、半分、三分の二——ここで瓶ごとひっくり返ってしまった。  顔から肌寒くなるような速度で血の気が引き、弓なりになった身体の全関節が小鳥のさえずりのような音をたててきしむ。  異様な呻きとともに、顎を押しのけて舌がせり出してくる。 「危《やば》いぞ、中毒だ。薬を」  帝王が立ち上がり、デリラの口に両手の人さし指を突っこんだ。気道を確保するのと同時に、舌を噛まぬための処置だ。  その間に、ガリルが腰のバッグから中和剤のアンプル注射器を取り出す。 「急げ。間に合わん」  帝王の声を緊張が渡った。 「よし」  アンプル片手に、ガリルが接近する。その手元へ床から人影が跳ね上がった。  よける暇もなく、その頭部がガリルの手に激突し、アンプルを跳ねとばした。生命の綱を。 「莫迦野郎」  思わず放った怒りの手刀を、犯人は間一髪でかわした。へたりこんだのである。恐らくは、立ち上がったのも衝動的だったに違いない。或いは、冷静沈着なリーダーの切迫した口調に、反射的に応じたものか。猿羽であった。  デリラの喉が、人間のものとは思えぬ音を放ち、身体が限界までねじ曲がる。 「いかん!?」  帝王が叫んだ。その絶望に黒い手が応じた。  男たちの眼は、Dの美貌よりもデリラの白い額にあてがわれた左手を見つめた。  皮膚と皮膚との接触部から、全く別の音がする。何かを吸い取るような。  ガリルが低く、おお!? と呻いた。  フィルムを逆回転させたごとく、デリラの動きがすべて逆を辿り——痙攣は熄《や》み、身体は戻り、赤みが広がっていくではないか。  生命を賭けた途方もない長時間の治療を終えて、Dが何事もなかったように手を離すまで——二秒。  そのとき、男たちは見た。  戻されたDの左手の表面に、生々しい朱唇《しゅしん》が浮き上がっているのを。  ほとんど同時に、デリラが眼を開いた。おぼろな幻暈《げんうん》が漂い、すぐに吹き飛んだ。デリラは起き上がった。  ガリルがのばした手を無視してDを見上げた。こちらは手をのばしてくれない。  自力で起き上がった。 「みっともないところを見せちゃったわね」  苦笑の奥には、覆い切れない歓喜がどよめいていた。 「でも——一生恩に着るわ、D」  右手を差し出したが、無論、Dは無視した。 「あーら、驚いた。あたしの握手を拒む男なんてはじめて」  すねたようなデリラへ、 「驚いたのはこっちだ」  帝王が憮然たる表情で言った。 「利き手を平気で相手に預ける戦闘士とはな。おまえが握手を求めるのを見たのは、それこそはじめてだ」 「あーら、そうだったかしら」  そっぽを向いたデリラの顔が朱いのは、酔いのせいばかりでもあるまい。  帝王はDの方を向いた。 「あんたのおかげで、メンバーの別の顔が見られるな」 「なんのなんの」  と嗄れ声が返した。 「腹話術が趣味か?」 「まあ、な」 「それにしちゃ、声の趣味が悪いぜ。まるで女郎屋の遣り手婆あだ」  頓がゲラゲラ笑った。 「全くだ」  これはDの声である。その腰のあたりで、小さく、 「何を抜かす」  と聞こえた。  帝王が顔の位置を変えた。  ガリルも、デリラも、頓も、ほとんど同時にそちらを向く。驚くべきことに、床上の猿羽まで、へべれけ顔を動かしたではないか。  視線がDに集中した。しかし、Dを見てはいなかった。 「十五騎」  と猿羽が床上で言った。眼を醒ましているのか。いや、表情も全身の雰囲気も隙だらけだ、弛緩し切っている。 「北の出入口から来たわね」  とデリラ。 「馬の使い方は心得てるじぇ」  頓がまたゲラゲラと笑った。  Dの向うは壁だ。壁の向うは通路で、そこをはさんで別の部屋。そこには窓がある。窓は通りに面している。  だが、騒然たる店内の音響をひとつとして通過させぬ壁の向うを歩み去る人馬の存在を、その数を、乗りこなしぶりを、彼らはどうやって見抜いたのか。 「何にせよ、おれたちとは関係ない。もう一杯いこうか、兄弟」  帝王がグラスを上げた。    2  その一団は、確かに帝王たちと無関係といえばいえた。  治安官事務所へ、ノックもなしで現われた一党のひとりは、居合わせた村長、役人たちの視線を浴びながら身分を明かして、全員の眼の玉を飛び出させた。 「『都』の巡察隊!?」 「そうだ」  重々しくうなずくグレーの制服姿は、白い埃にまみれていた。 「おれは隊長のドネリーだ」 「しかし、一昨日、ドニッチの村を通過したと聞いてるぞ。二〇〇キロも東だ」  と村長が訝しげな眼を向けたが、相手は微動だにせず、 「それは本隊だ。ケゼスの山岳地帯で、野盗たちの跳梁が活発化しているのは知ってるな。我々はその鎮圧のために組織された別働隊だ。三日前から近くの山岳地帯を捜索中のところへ、『都』からの指令を受けて急行した次第だ」  村長が、はあとしか言えないうちに、ドネリーは槍のように用件を突き出した。 「おまえたちが収容した貴族を渡してもらいたい。これは『都』からの指令だ」  放り出されるようにデスクへ置かれた書類に眼を通すと、確かに『都』の執政庁の品である。署名も現執政官のものだ。  村で発掘されたものは、何であろうと『都』へ運べと記されている。  これでは一方的だ、と村長は食ってかかった。 「いくら執政庁だからといって、我々の発掘品をただ持っていくというのでは納得できませんぞ。正当な理由を聞かせていただこう」 「貴族法第九項『貴族の遺跡、遺品に関する発掘』第七条を知っているかね?」  ドネリーの口もとに酷薄そうな笑みが浮かんだ。おまえごときに、わかるものか。そのとおりだった。  屈辱を噛みしめる村長の耳に、低い声が滑らかに入りこんできた。 「『貴族に関する遺跡、発掘品は、基本的に、その土地を所有する個人、共同体に属するものとする。ただし、『都』の執政庁が特別なものと認めた場合、個人、共同体は速やかに要求を受け入れ、協力しなくてはならない。』——これで十分だろう」 「いや、それは法解釈の問題で、我々にも都合が」  なおも抗弁する村長へ、 「では、君たちは、その貴族をどう扱うつもりなのかね?」  ドネリーが切りこんだ。 「そ、それは——」 「辺境の村々で、生ける貴族を発見した際に行なうことは、ただひとつだ。心の臓に楔《くさび》を打ちこみ、首を落とす——これ以外、何ができる?」  村長も治安官も凍りついた。そのとおりだ。あの小太りの貴族はおとなしくついてきた。牢へも入った。だから気にしなかったが、彼が抵抗しないのは、実はDがいたためではないのか。そのDを、彼らはお払い箱にした。それなのに貴族はおとなしい。実はDの不在を確認した上で、何やら人間には想像もつかぬ貴族の脱出と報復の策を練っているのではないのか。  思わず、牢獄の扉の方へ向いた村人たちへ、ドネリーは冷やかに断言した。 「北部辺境は比較的貴族に対する恐怖の薄い地域だ。それから鑑《かんが》みて、君たちの狙いはこうだろう。陽の下をうろつく貴族を名物にして、観光客を呼び寄せる。——確かに増収は間違いない。何しろ血さえ与えておけばいいし、それをしなくても、貴族は不老不死だ。村が消滅しても生き続けるだろう。だが、『都』の上層部の思惑は、田舎の村よりずっと巨大で深いぞ。生ける貴族——陽光の下を歩く貴族。これが人間にとって、いかなる価値を有する存在かを知っている。さ、話はここまでだ。その貴族を貰っていこう」  ドネリーが一歩前へ出た刹那、後方で銃声が轟いた。  役人のひとりが右肩を押さえて背後の壁に激突した。足下へ単発の火薬銃が落ちた。  反射的に火薬銃へ手をのばす治安官の鼻先へ、胡椒入れみたいな太めの銃身が突きつけられた。直径三センチもある銃口には、スポンジ状のチューブが嵌めこんである。  治安官はゆっくりと銃把《グリップ》から手を離した。 「わかったかい?」  とドネリーが訊いた。  ああ、と治安官はうなずいた。頬に汗の粒が浮き上がってくる。 「短針銃だな?」 「そうだ」  ドネリーが答えた刹那、牢獄の扉の一部の蓋《カバー》がめくれ、火薬式ライフルの銃身が突き出された。  轟きが部屋を揺らした。  巡察隊のひとりが吹っとぶと同時に、扉の表面が銃眼を中心に白くかがやいた。それが直径三〇センチほどの円にまとまるや、厚さ五センチの鉄扉を打ち抜く黒い穴と化した。人間の身体の倒れる音が、穴の向うから吹きつけてきた。 「みんな、抵抗するな!」  治安官が叫んだ。 「牢番か? 気の毒にな」  短針銃の銃口を左右にふって威嚇を行ない、ドネリーは背後の部下に、 「サッシャだな、どうだ?」  と訊いた。射たれた仲間だろう。 「死にました」  誰かが答えた。 「『年金局』へ申請しなきゃならんな。みな証人になれ」  低い応諾があった。 「『執政局』からは、いずれ処置の知らせが届く。さ、貴族を引き渡してもらおう」  治安官が顎をしゃくると、村長の隣にいた助手が、丸い口を空けた鉄扉のところへ行き、突起に引っかけてある鍵束を手に取った。  その中のひとつで鉄扉を開け、内側へ入ると、すぐに別の鍵を開ける音と、蝶番のきしみが続き、丸まっちいマキューラ男爵が現われた。 「何だ、おまえら?」  と太い眉を寄せる。  ドネリーが事情を告げた。 「ふん、おまえら人間どもが支配する世の中など、何処へ行っても同じだ。まあ、こんな片田舎で、観光客相手の見世物にされるよりはマシだろう。案内せい」  それから、きょろきょろと室内を見廻し、デスクの横に積んであった古ぼけた皮鞄に眼を止めた。冬眠装置から持ってきた愛用の鞄である。貴族にはおよそ似合わない。 「取ってこい」  えらそうに命じ、ドネリーの部下のひとりが持ってきた鞄を掴むと、村長に向かって、 「開けてみたか?」  村長はかぶりをふった。 「そんなボロなのに、どうしても開かなかったわい」  丸顔が凄みのある笑顔になって、 「運のいい奴め。ひょっとして、善人か」  村長をぞっとさせる台詞を吐くと、笑顔になってオフィスを出て行った。  何人かの部下があわてて後を追い、副官らしいひとりが空を見上げて、 「少し来るのが遅れた。サラマンドルの谷を越える頃には陽が落ちるぞ」  とドネリーにささやいた。 「だったら野宿をすりゃあいい。おかしな貴族だが、宝の山には違いない。一刻も早く『都』へ届けるんだ」  空気は、昼近くの敢然たる清冽さを失いつつあった。    3  十四名の騎馬隊が、サラマンドルの谷にさしかかったのは、夕暮れの挨拶まで一時間ばかり余裕のある時刻だった。  西を向いた岩の表面を、光が薔薇色に染めている。  谷の入口で、一同は馬を止めた。  人馬の影がひとつ、けだるい光の中に現われたのである。  男たちは顔を見合わせた。影は灰色の制服を身につけていた。  サイボーグ馬にまたがっているのは、中年の男だった。辺境にふさわしい、厳格そうな、岩みたいな顔つきをしている。  中年男は、巡察隊の三メートルばかり手前でサイボーグ馬を止めた。  沈黙の対峙は短かった。 「——誰だ?」  と口を開いたのはドネリーである。 「君の——君たちの同僚さ」  と制服姿の男は笑った。左の頬に深い傷がある。銃創だ。浅黒い顔の中で歯並みの白さが、ドネリーの眼に灼きついた。男に言った。 「巡察隊の名をかたるのは重罪と知っているだろうな?」  ドネリーの背後で小さな気配が重なり、空気を波動させた。部下たちが一斉に銃を抜いたのだ。  単発の火薬銃もある。鋲打ち銃も、杭打ち銃もある。ドネリーを除いて計十三挺——たったひとりには大仰すぎる数は、巡察隊の動揺を表わしていた。 「確かに重罪だ」  と馬上の男は認めた。 「では、おれの刑は何かな?」 「死刑だ」 「待て」  と意外な人物から制止がかかった。 「いくら何でも無茶だ。話し合え」  これが、マキューラ男爵だったから、面白いといえば面白い。  ドネリーの右手が、ガスの開放音を発した。  秒速一七〇〇メートル——マッハ五の超音速で飛来したタングステンの微針は百万本。男の胸部を貫き、肉も骨も粉末状に変えた。  どっと鞍から崩れ落ちる姿に、マキューラ男爵が飛び上がった。 「お、おまえら何をする? 確かめもせずに——」  そこで、はっと凍りついた。驚愕の表情で男たちを見廻し、 「ひょっとして、偽者は……」 「そのとおりだ。今頃気がついたか? トロい貴族だぜ」  ドネリーが馬上で身をひねり、嘲笑を与えた。 「近頃辺境を荒らし廻ってる野盗の話を聞いてたかい? あれがおれたちよ。四日前、サトリの村へ送りこんどいた手先がおめえのことを知らせに来たんでな。こら銭になると、近くで待機してたんだ。田舎の村長や治安官はあっさり騙せたが、本物の巡察吏はそうもいかねえ。もっとも、おかげで村長たちは長生きできそうだがな」 「ふーむ。ふむふむ」  と男爵は、だぶついた顎に、むっちりした片手を当てて首をひねっていたが、すぐ、 「——で、わしをどうするつもりだ?」  と訊いた。  その口が笑いの形に歪みはじめたのを不気味に感じながら、ドネリーは、 「村で言ったとおりさ。陽の下をうろつく貴族と聞きゃあ、眼の色を変える研究機関や物好きの金持ちが腐るほどいるんだ。貴族を怖がるばかりじゃなく、その不死の秘密のお相伴に与かりてえってわけよ。そこへおめえを連れてってみな、辺境ひとつ丸々買えるくらいの銭が手に入る。本物の金持ちてな、桁が違うからな」 「わしを金で売る気か? けしからん」  男爵は、ゆでだこ[#「ゆでだこ」に傍点]みたいに赤くなった。怒っているらしい。 「うるせえ、どたばた騒ぐな。おとなしくしてりゃ大事な金づるだ、お客扱いしてやるが、手間ぁかけやがると、手足を切り離すぞ」 「お、おお、やってみるがいい」  男爵は馬上でそっくり返った。表情が不釣り合いなところから見てハッタリだ。 「わからねえ貴族だな」  ドネリーが短針銃を向けた。 「まだ昔の栄光が忘れられねえとみえる。現在の身のほどを教えてやるぜ。まず、右腕だな」 「話し合おう」 「阿呆が」  彼は引金を引こうとした。  その胸を銃声が貫いたのである。馬上から吹っとび、ドネリーは地に落ちた。即死だ。 「コグス——何しやがる?」  部下のひとりが、ドネリーのすぐ右にいた男に連発式の火薬銃を向けた。その男の手にも同じ形の武器が握られている。いきなりドネリーを射ち殺したのは、この男であった。  だが、男は硝煙漂う銃をふり廻して抗弁した。 「違う。おれじゃねえ」  男は叫んだ。叫びながら射った。続けざまに三人が落馬し、 「違うう」  絶叫する男に、仲間たちの弾丸が集中した。悪夢はそれからはじまった。 「ざまあ見やがれ」  罵った男のこめかみへ、左隣の男がガス圧式のボルトを叩きこみ、 「手だ——手が勝手に」  と喚くその腹へ別の男のナイフ弾がめりこんだ。  狂気の血風が男たちの間を駆け巡ったとしか思えない。仲間が仲間を射ち、狂乱する。馬たちは、落馬した男たちを容赦なく踏みにじった。  最後にひとりが残った。 「一体……何が……みんなで射ち合って……」  呆然と呻くその手がこめかみに上がった。  鋲打ち銃の銃口が火を吹いても、男には原因が突き止められなかった。  死者の重みが地面にささやかな圧搾を感じさせ、返礼に地面が鈍い音をたてた。  ほんの少しだけ沈黙の夕暮れどきが訪れた。 「あちゃ——」  ようやくつぶやいて、マキューラ男爵は、丸い顔を前方へ向けた。最初に射殺された本物の巡察吏[#「本物の巡察吏」に傍点]に。 「おい、おまえの望みどおりになったぞ。起きろ起きろ」  こう声をかけるや、男はぎごちない動作で起き上がったではないか。胸にはぽっかりと穴が空いたまま。  へにゃ——と男爵が唸った。感心したらしい。 「どうやったか、おおよその見当はつくが、こいつらを殺したのは、おまえだな?」 「そうなるな」  男は眉をひそめて胸の傷を確かめ、右の拳を入れた。肘まで通して出し入れを繰り返す。どことなく喜劇的な、しかし、考えてみれば、身の毛もよだつ行為だった。  興味津々たる表情でそれを見つめていた男爵は、 「なかなか面白い奴だ。おい、おまえもわしが狙いか?」 「そうだ」  と男は手を戻してうなずいた。 「ここでしばらく待て。じきに部下がやってくる」 「おまえも山賊か?」 「そういうこった。おれもサトリの村へ仲間を忍ばせていた。ただ、この谷を抜けるのは物騒なので迂回した。面倒なので、おれだけが先行してみたのさ。おれは頭のJQという」  胸に穴を空けた男は、にやりと男爵を見て、 「この谷の正体は、おまえも知ってるはずだ。知らん顔で野盗どもに行かせ、自分だけ助かる心算《こころづもり》だったろうが」 「むむむ」  図星を衝かれたらしく、男爵は眼を白黒させた。 「貴族に似合わんセコい野郎だ。だが、貴重な金づるには違いない。『都』の連中が、さぞや喜ぶだろう。さ、下りろ」  男爵は、なおも眼を白黒させていたが、不意に右の人さし指を眼に当てて、あかんべーをした。 「——!?」  常識外れの反応に、男——JQがさすがに眉を寄せた瞬間、男爵の太くて短い足は、激しく馬の脇腹を蹴っていた。 「おおっ!?」  JQの叫びは天空へ発した。その頭上を、男爵と馬は一体となって越え、五メートルも離れた地点へ着地するや、後をも見ずに谷間へと駆け降りていった。 「甘く見過ぎたか」  JQがこうつぶやいたのは、鉄蹄の轟きが消え去る寸前であった。 「しかし、おれなればこそ通過できたこの谷へ、二度と入りたいとは思わん。ここは見逃すしかあるまい」  磊々《らいらい》たる岩の世界を睥睨してから、ようやく笑いを刻んだ。 「まあ、先は長い。いずれ谷間の外で——」  言い切れなかったのは、JQ自身が電光の速度でふり向いたからだ。それは、彼の意識しない——理解の外にある感覚の命じた反応であった。  野盗たちのやって来た道の奥に、忽然と人馬の影が浮かんでいた。  石を踏む鉄の音が近づいてくる。 「誰だ?」  返事はない。  次にJQは奇妙な行動をとった。 「誰だ?」  と、もう一度訊いてから、 「黙れ!」  と鋭く叱咤したのである。自分で尋ね、自分で罵るとは。  理由はあった。彼は骨の髄まで凍りついていたのである。  近づいてくる馬上の影は、それを聞いただけで仕掛けてくるかも知れない。そして、彼にはそれを躱《かわ》せぬことがわかっていた。  今、人馬はその眼前を通り過ぎようとしていた。  サイボーグ馬に乗った騎士を飾るのは、鍔広の旅人帽《トラベラーズ・ハット》、深い青を湛えたペンダント、漆黒のコートの背には優雅な長剣《たち》を一振り揺らし——  JQがよろめいたのは、地上に広がる野盗たちの死骸に一瞥も与えず、人馬が去っていった安堵からではなかった。  旅人帽の鍔と立てたコートの襟との間から覗く横顔を、彼は見てしまったのだ。恐怖の中で彼は陶酔し、恍惚となった。  谷間へと去っていく二つめの影を見送りながら、JQはうわごとのように呻いた。 「おまえ[#「おまえ」に傍点]——おまえなら[#「おまえなら」に傍点]、奴を自殺させられるか?」 「お易い御用だ」  返事はすぐにあった。 「——追おう」  とJQは歩き出した。 「何のためだ?」  うす笑いを含む声が訊いた。 「貴族の捕獲と護送を頼むのだ。あの男ならできる。サラマンドルの谷間でも、な」  少し間を置いて、もうひとつの声が、 「いや、やめておけ」  と言った。 「なぜだ?」 「あの美しさ——危険すぎる男よ。一歩間違えば、おれとおまえでも生命がない。今日のところは退こう」  また少し間を置いて、JQは、 「同意する。あの男とはいずれな」 「お利口さんだな」  声に挑むように、JQはそちらを睨んだが、すぐに思い直すや、夕暮れの青い光の中を、黙然とサイボーグ馬の方へ歩み寄っていった。胸の真ん中に、拳大の穴を空けたまま。 [#改ページ] 第三章 谷間の妖人(あやしびと)    1  Dがサラマンドルの谷を選んだのは、隣村へ辿り着く近道だったからだ。  谷間は怖れられている。それだけの理由はある。だが、この若者には意味がないことであった。  谷間の道は石で埋もれている。サイボーグ馬の蹄が触れるたびに、小さな火花が散った。  三十分ほど進むうちに、前方から、 「助けてくれえ。誰かあ」  と情けない声が流れてきた。 「あいつ[#「あいつ」に傍点]じゃな」  と手綱を握る左手から声がした。 「なんたる情けない声じゃ。貴族の風上にも置けん」 「変わった男だ」  とDも付け加えた。よほど印象的だったのだろう。  さらに一〇〇メートルばかり前進すると、広い道の真ん中に、丸まっちい人影が倒れているのが見えた。  両手で右足首のあたりを押さえている。  速度も上げず、そのかたわらまで近づき、無言で見下ろすと、 「何をしておる。早く助けてくれ」  痛い痛いと喚く。 「どうした?」  とDが訊いた。 「馬から下りたとき、足をくじいた。とても痛い。早く助けてくれ」 「貴族がそれで泣き叫ぶか」  寸鉄胸を刺すような、Dの指摘も、男爵には通じないようであった。  痛い、苦しい、助けてくれの三語ばかりを喚き散らす。馬の姿はない。この声に驚いて逃げてしまったのだろう。 「放っておけ」  嗄れ声も呆れ返っていた。 「じきに日が暮れる。サラマンドルの奴が現われれば足も治るだろう。おまえが息の根を止めてもいいが、残念ながら依頼者がおらん。先を急げ」  これにはDも異議はなさそうであった。  馬が前へ出た。  小太りの貴族は、一瞬、ん? という表情をつくり、 「こら、貴様、怪我人を見捨てていくつもりか? この人非人め。ああ、五千年の間に、人情も地に墜ちたか。痛てててて。これでは生きていても仕様がない。いや、生命の前に精神《こころ》が死んでおる。こんなところに放っておくつもりなら、殺していけ。いっ痛《て》っ痛っ痛っ痛え——」  少しわざとらしい苦鳴が、Dの行動に齟齬《そご》を生じさせるはずもない。  十歩ほど進んだ馬の足取りは、しかし、ぴたりと止まった。  森閑たる谷間の空気が、さらに凍りついた。  すうと世界が青みを増していく。  男爵が、痛て、と言った。 「来たぞ」  嗄れ声も緊張を漲らせた。  道の彼方から、何かがやって来る。  Dの右手がコートの内側へ入った。  空気を灼いて、白木の針が青い道の奥へと吸いこまれた。  ———— 「効果なし。来るぞ」  Dの姿が揺れた。馬だ。サイボーグ馬が後じさっているのだ。向かい来つつあるものに怯えて。それは、どれほど恐るべき存在なのか。  Dが身を屈めて、脇腹を叩いた。馬は立ち止まった。 「こちらも途方もない奴よ」  嗄れ声が呻いた。 「だが、ここは下がれ。いい手を思いついた」 「——何だ?」  とD。 「こいつを残しておく。サラマンドルが食っている間に逃げるのだ」 「いい手だな」  とDも認めた。 「助けてくれ」  とマキューラ男爵が絶叫した。 「貴様、それでも人間か、いやさ、ダンピールか。一生呪われるぞ。弱い者を見捨てて逃げるなど、人間の屑だ」  その人間を屑どころか虫ケラ扱いしてきた貴族の言葉と考えると、腹立たしいのを越えて不条理とさえ言えた。  無惨にも、Dは馬首を巡らせた。 「この卑怯者——助けてくれえええ」  男爵の鼓膜を打つサイボーグ馬の足音が、瞬く間に遠ざかった。 「糞ったれ。あいつらは一生救われんぞ。いい男など、真《まこと》に信用ならん。世の中を甘く見ておるのだ。今度会ったら思い知らせてやる。いっ痛っ痛っ痛え」  一リットルも汗を流して、彼はうつ伏せになった。  這いずる、というより転がるみたいに、道の端に落ちている皮鞄に近づいていく。 「あれさえあれば……糞……サラマンドルのごとき……ん?」  丸い顔を上げ、男爵は左方——道の彼方へ血走った眼を向けた。  奇妙なもの[#「もの」に傍点]がやってくる。 「何じゃ、これは?」  眼を凝らして、 「馬の尻か!?」  彼を置いて逃げた馬だ。それが後じさってくる。Dの馬と等しく、前方の気配に怯えて。Dの針を受けて、なお平然と近づいてくる存在——それは、伝説の火龍《サラマンドル》か?  闇色を流しつつある虚空から、髪をふり乱しつつ、ひとりの女が舞い降りてきた。  黄ばんだ綿のブラウスの下には、ぼろ布のような長いスカートをはいていた。灰色の髪は、落下しながらも顔を覆って、容貌を明らかにしなかった。  女が後ろ向きにまたがっても、馬は声をたてなかった。恐怖の金縛り。  その位置で、女は両手をふり上げた。  光のせいではなく、灰色をした指の先から、黄ばんだ鉤爪が凶々《まがまが》しくのびている。  左手を背後に廻して、女は馬のたてがみを掴んだ。  めりめりと音をたてて、それ[#「それ」に傍点]は抜けた。のみならず、その下の皮も肉もついてきた。女の右手が閃いた。馬の尻と背の肉が弾け、血風が吹き荒れた。  一秒とたたぬうちに、全身の肉を剥ぎとられたサイボーグ馬は、白骨と化した身を地上に転がした。  一面は血とオイルの海だ。そのただ中に女は正座し、散らばった肉片を手に取ると、男爵など知らぬげに口にしはじめた。  これが伝説のサラマンドルか!?  そのスピードたるや、一頭の馬が、肉片から内臓、骨のひとかけらまでも食らい尽くされるのに、一分とかからなかった。  理性も——恐怖さえも消し飛んだかのように、その浅ましい姿を見つめる男爵の方へ、不意に女が首をねじ向けた。  灰色の髪の下に、血光を放つ眼を男爵は見た。  女は両手を胸前に上げた。開いた五指は、掴みかかる合図だった。その指が触れたものは、まさしく火龍といえど、分解されてしまう。  見定め難い口から、獣の唸りが洩れた。  女は跳躍した。 「ひええええ」  男爵は走り出そうとして——一〇センチも這いずれない。  舞い降りる妖女の眉間を白い光が貫いたのは、空中であった。  今度は男爵という獲物に精神を集中していたせいか、女は身悶えしながら男爵の足下へ落ちた。  苦鳴にまみれてのたうち廻る姿は、残酷とも醜悪ともたとえようがない。  あまりに凄まじい断末魔に見とれていたせいで、男爵は背後に近づく馬の足音にも気配にも気づかなかった。 「仕留めたの」 「ああ」  と男爵は答えたが、もちろん、声の主の相手は彼ではなかった。  地上の女の断末魔が静まりはじめた。ここで気がつき、男爵はふり向いて、サイボーグ馬と黒衣の若者を認めた。  妖女の眉間を射ち抜いた白木の針——男爵でなければ、ひとりしかいない。 「何しに来た?」  と彼は路上で凄んだ。 「これから、あの雌豚を料理してやるつもりだったのだ。よくも邪魔をしてくれたな」 「懲りない奴だ」  と嗄れ声が吐き捨てた。 「少し、肝を冷やしてやろう」  その意味はわからず、しかし、冷たい手に背中を撫でられたようにぞっとして、男爵はふり向いた。  それは志半ばで潰《つい》えた。やや首をねじ向けたところで、凄まじい力が髪の毛をひっ掴んだのだ。  逃げる暇もなく、彼はのけぞった。  髪の毛は毟りとられていた。  次の瞬間、最後の力をふり絞ったのであろう妖女の首すじへ、唸りをたてて一本の針が食いこんだ。今度こそ、妖女は倒れ、二度と動かなかった。 「ほお、生命冥加《いのちみょうが》な奴じゃの」  嗄れ声は呆れ、それから、 「あの婆《ばば》に捕まったものは、例外なく髪の毛ごと肉も剥ぎ取られてしまう。なのに、おまえは——」  不意に声は途切れ、Dの眼は、ぼんやりと夜気に漂う海月《くらげ》のようなもの[#「もの」に傍点]を映した。 「何を見ている?」  男爵は憤然と寝そべったまま訊いた。 「禿が珍しいか?」  映しているのは、Dの方ばかりではなかった。男爵の頭もこの世のものとも思えぬ美貌を朧《おぼ》ろに浮き上がらせている。妖女の死掴みを免れた原因は、鬘《かつら》だったのだ。 「達者でな」  嗄れ声と同時に、サイボーグ馬は歩き出した。 「待て待て待て」  男爵はうつ伏せのまま、手足をバタつかせた。 「こんな物騒なところへ、わしを放っておく気か。連れていけ。えーい、ただとは言わん。いいことを教えてやるぞ」  それでも悠然と歩み去るものだから、 「こら待て。いますぐ大枚が手に入るぞ。貴族の金貨と宝石だ。おまえは世界一の金持ちになれる」  馬の足が止まった。 「他には?」  夕暮れのような声である。 「——他に?」  じろ、と別人のような鷹の眼がDを刺した。 「知っておったか。おまえ、ただのハンターではあるまい。——あ、こら、待て。おまえの言うとおりだ。貴族の発明品も貯めこんである。そっちが望みか」 「何処にある?」 「連れていってくれるか?」 「よかろう」 「イエイイエイイエイ」  男爵の手足は、またじたばたした。ただし、今度はVサインだ。 「ではまず、この足を治してもらおう」 「おまえ、本当に貴族か?」 「その顔で、爺むさい声を出すな。おかしな趣味を持ちくさりおって。いいか、わしは陽の下をうろつく貴族だぞ。その分、犠牲にしたものも多いのだ。再生能力、治癒能力は特にひどかった」 「陽の下を歩けるが、捻挫したらもう立てんか。おまえ、選択能力はないようだの」 「うるさい。さっさと治さんか」  Dが馬から下りて、男爵のくるぶしに左手を置いた。 「立て」 「まあ、待て。怖いではないか。そーっと、そーっと」  夜が明けそうなくらいに緩慢な動作で起き上がろうとするのへ、Dの蹴りが飛んだ。 「ぎゃあ」  と、またひっくり返ってのたうつ小太り禿へ、 「立ってみろ。もう治っている」 「え?」  力を入れると、確かに痛みは鈍痛程度しかない。  立ち上がって、男爵は与太者のように肩をゆすりゆすり落ちている皮鞄のそばまで歩いてそれを拾い上げ、それから、道の右側にそびえる岩壁へ近づいた。  闇の中で貴族は眼を凝らし、 「この辺だが、わからん。おい、赤っぽい石が嵌めこんである。探せ」 「おのれがやらんか」 「ふん、見えんのだ」 「何ィ?」 「失ったものが多いと言ったろう」 「この能無しめが」  Dは無言で男爵が後退した岩壁に近づいた。  そこばかりか、一帯を調べて、男爵を見つめた。 「無しか? そんなはずはない。確かにここへ——あっ!?」  丸顔が天を仰いだ。  嗄れ声が威圧するみたいに、 「おい、まさか、反対側の岩だと言うんじゃあるまいな?」  男爵は唇を歪め、それから媚を売るような笑顔になってDを見つめた。  指がさしたのは、向い側の岩壁であった。 「当ったりィ」  と彼は照れ臭そうに言った。    2  赤い石はすぐに見つかった。小指の先ほどの表面に骸骨マークが刻印されていた。 「餓鬼が」  と嗄れ声が侮蔑の言葉を発したが、男爵は一向に構わず、スキップしながらそこへ近づくと、ふふふと意味ありげに笑ってDの方をふり返ったが、Dが何の反応も示さないので、不平面のまま、右の小指に嵌めた指輪を骸骨に当てた。  もうもうたる霧が二人へ吹きつけたのは、次の瞬間だった。  その奥から、 「むはは、驚いたか」  男爵の高笑いが鳴り響いた。  Dは左手を前方にかざした。 「どうだ?」 「呆れた大仕掛けじゃ。岩盤が縦に一〇〇メートルも裂けおったぞ。霧はその内側《なか》から吹いてくる——おや?」 「どうした?」 「おかしいぞ。奴め、うろうろしておる。ははあん、霧を出したのはいいが、自分も入口が見えなくなったのだな。おや、岩盤にぶつかりおった。おお、よろめいておるぞ」 「………」  額の瘤《こぶ》を押さえてふらついている男爵の襟首をDの手が掴んだのは、数秒後であった。 「何をする?」 「約束のものを見せろ」 「わかっておる。糞」 「霧にまぎれて逃げるつもりだったな?」 「何を抜かす。このマキューラ男爵が、そんな卑怯者に見えるか?」 「他に何に見える?」 「糞ったれハンターめが。さっさと尾いてこい」 「案内できるのか?」 「気の利かん奴だな。当然、おまえが先だ。しかし、気をつけろよ、どんな罠が張ってあるかわからんぞ。——あら?」  不意に男爵の身体が宙に浮かんだのである。  襟首を掴んだ左手を前方に持ち上げた形で、Dは左右に開いた岩盤の内側へ入りこんだ。 「しかし、おかしな貴族だな、おまえは」  嗄れ声の指摘に怒るより、男爵は妙な顔で首の後ろに手を廻し、Dの拳に触れて、首を傾げた。 「そういうおまえこそ、おかしなところから声を出す奴だな。それも何を好きこのんでか、品のないがらがら声を」 「うるさいぞ。自分で前も見えんような仕掛けをこしらえた阿呆が、何を抜かす」 「ふん、これは手違いだ」 「手違い?」 「わし以外の奴が、この倉庫を見つけたときの目くらましに作った非透過性の霧だったのだが、眠りにつくとき、この装置だけストップさせるのを忘れたらしい」 「………」 「つまり、五千年間、霧が作られっ放しだったということだ。こりゃ簡単には消えんなあ、うむ」  確かに、尋常な濃霧なら昼のごとく見通せるDが、出入口での発言のごとく視界が利かないのだ。それでも、左手の指示もなしでずんずん進んでいくのは、左手の見えるものは、視認できるのであろう。  霧の中を前進し、曲がり、上がって、下りて、Dは足を止めた。  さしもの霧もここは色褪せて、雪の日の一景のごとく、周囲の品を浮かび上がらせていた。  別の色彩《いろ》が二人を染めた。  広大な一室は、まばゆいばかりの黄金と宝石、そして、奇怪なメカニズムの山で埋められていたのである。 「見たか、ここがわしの隠し倉庫だ」  空中でマキューラ男爵が胸を張った。 「おまえの望んだ発明品は、左の奥にある。さっさと下ろせ。わしは金目のものを探す」  喚き散らす男爵を、ででんと床に放り出してから、Dは「発明」の方へと歩き出した。  数分後、戻ってきたDを、動く黄金と宝石の塊が迎えた。  純金よりなお美しいかがやきを放つ甲冑をまとい、その上から宝石のネックレスやら飾りものやらを巻きつけた男爵を、Dは静かに見つめた。 「それで歩き廻るつもりか? 十歩も行かないうちに、千本も杭を打ちこまれるぞ」  これは鋼の声である。 「ま、まずいかなあ」 「谷の出口までは好きにしろ。行くぞ」  Dはもと来た道を歩き出した。その後を、金物の触れ合うけたたましい音をたてて、男爵が追った。皮鞄だけは、感心にも手放していない。  霧はなお深かったが、一度通った道である。Dは一瞬の停滞もなく谷間へ出た。  数分遅れて満艦飾の貴族が現われ、息も絶え絶えに、 「なぜ、そんなに急ぐのだ?」  と、へたりこんだ。 「この谷間はあと三十分で消滅する」 「なにィ!? 何故だ?」 「貴族の武器と発明を操る知性を、人間はいまだ備えてはおらん。もたらされるのは、おびただしい死と破壊だ」 「むむむ」  と呻いてから、男爵は不意に気がついた。 「わしの倉庫じゃぞ。それなのに、なぜ、おまえが自爆装置を動かせる?」 「あと二十九分」  ぴょんと跳ね上がった身体が、がしゃがしゃとサイボーグ馬に駆け寄り、鞍に手をかけるや軽々とまたがったのは、嗄れ声が、おおと呻いた鮮やかさであった。 「行くぞ、後から来い!」  踵でひと打ち、男爵とサイボーグ馬は右の道を蹴りはじめた。 「おや、置いてきてしまったか。はは、奴め、さぞや泡を食っておろう」  馬上で、はは、ははと大笑した襟首が、後ろからぐいと掴まれ、持ち上げられて、鞍の前に移されるや、並んで疾走してきた黒衣の姿が魔影のように浮き上がった。  谷間の一角から生じた虹色の光点が、みるみる波のように広がって、谷全体を埋め尽くし、岩に金属——あらゆる物資を分子レベルで溶解させたのは、奇妙な人馬が十分に安全圏へ辿り着いた後であった。  二人は谷間の西にある峠の上で、闇を染める虹の天蓋《ドーム》を目撃した。すでに消えつつあった光彩は、それをはかないと思わせる前に闇に呑まれた。 「あの宝物蔵の品を集めるのに、何年かかったと思う?」  男爵が愚痴った。二人は馬を下りている。 「三百年だぞ、三百年。我らの技術をもってすれば、宝石の合成など子供の遊びだが、あそこにあったのは、すべて真物《ほんもの》なのだ。あー勿体ない」 「それだけ残れば十分だろう。飛んでくる杭や矢も、ついでに跳ね返してもらえ」  嗄れ声が言い放って、サイボーグ馬へと進んだ。 「こら待て待て」  と男爵が声をかけた。用件はわかっている。Dが足を止めたのは、前回よりずっと自信——傲りにさえ満ちたその口調ゆえであった。  夜目にも禿頭がにやついている。 「初見から気になっておったわい。その美貌、Dという名前。おまえ、わしのことを誰ぞやから聞いた覚えはないか?」  Dの無言がその答えだった。  男爵の笑みが急に深くなった。のみならず、それは闇に内在する暗黒部分を抽出したかのような邪悪な形を取った。 「そうか。奴め、わしのことは何も告げなかったとみえる。くく、用心深い男よ——“神祖”と呼ばれながらも、な」  次の瞬間——  絶望か断末魔かその双方か——名状しがたい叫びを上げて、丸い身体は後方へ跳んだ。否、跳ねとばされたといっていい。剛体の質量を持った殺気の一撃に。  峠の端まで吹っとび、転げ落ちる寸前で止まったのは、僥倖《ぎょうこう》というべき現象であった。 「ななななななん……」  全身も声も総毛立っている。何故か、禿頭だけが湯気を噴いている。 「何を聞いたかは知らんが、“神祖”と口にした以上、覚悟はできているな」  いつもと変わらぬ冬の夜のごときDの声であった。だが、違う。まるで別人だ。 「できとらん、できとらん」  ただ立ち尽くすDに何を感じたか、男爵は必死に立って歩こうとし——明らかに腰を抜かしている——そのたびにひっくり返って、痛ててと叫び、それでもDに、 「事情はよくわかった。だが、わしをどうこうすると、後々悔やむことになるぞ。Dよ、わしはおまえのことを“神祖”以上によく知っておる唯一の貴族だ」  それは、Dの殺気以上に衝撃的な言葉だった。  よりにもよってこんな場所で、よりにもよってこんな貴族の口から。ミスマッチだ、あまりにも。それは、モグラが大宇宙の神秘を解き明かしたというに等しいではないか。  じり、とDは夜の地面を踏んで前進した。  ぴょん、と小太り男爵が後ろへ跳躍する。黄金の鎧《よろい》を身につけて大したものだが、ばらばらとダイヤの首飾りや黄金のブレスレットがこぼれるのはいただけない。 「つ……連れていくか、わしを? なら、知りたいことは、みいんな聞かせてやるぞ。わあ!?」  悲鳴は坂の向うから聞こえた。着地したのはいいが、平地のつもりで傾斜路へ落ち、びっくりしたらしい。 「食わせ者《もん》じゃぞ」  と嗄れ声が言った。ほとほと呆れ返ったように、 「どう考えても、あいつ[#「あいつ」に傍点]とおまえをつなぐ糸が巻きついているとは思えん。一から十まで嘘で固めたペテン師に違いない」 「何を言うか」  坂道の下から抗議の声が上がった。 「やかましい」  と嗄れ声は言い返し、 「なら、あいつ[#「あいつ」に傍点]はいま、何処にいるか言ってみい」  と叫んだ。  返事はすぐあった。 「遠くて近いところだ」 「——やれやれ。な?」 「いや」  とDは答えた。 「なに?」  と嗄れ声が驚愕に染まったとき、闇と傾斜に隠れた声は、誰も予想し得なかった止めのひとことを放った。  凍った。  Dのみならず、左手までが。 「それは……」  嗄れた声は死者のものであった。 「わかるであろう、おまえなら」  見えざる声は、別人のそれと化した。  地から放たれるそれ[#「それ」に傍点]が、天上から降り注ぐがごとく聞こえるのだ。 「——夜に生きる貴族を、陽光の下で歩ませるための解よ」  と男爵の声は言った。 「“神祖”は、方程式を作り出すことはできたが、それを解くことはできなかった。わしのみが、それを可能にしたのだ。このアルプルプ・マキューラ男爵のみがな。最も、この解を教えてすら、“神祖”以外に解くことができる者はおらなんだ。貴族貴族と怖れられる輩の、それが実力だと知ったとき、Dよ、わしは星の彼方へ行きたくなったぞ。だが、すでに定期航路は廃止されており、闇のルートを当たるのも面倒であった。故に、わしは地下へ潜ったのだ」  夜気に流れる声は、悲痛なメロディを奏でていた。  滅びの詩は、誰かの琴線に触れた。 「嘘ではなさそうだ」  Dは静かに言った。    3 「もちろんじゃわい」  のこのこと丸まっちい身体が峠を上がってきた。石にでもぶつけたのか、額に瘤がひとつできていて、涙目だ。  ぐずぐずと鼻をすすり、瞼を拭ってから、 「話はここまでじゃ。これ以上は一緒に連れていく途中で小出しにしてやろう。おまえの出生の謎を知りたくはないかな、Dよ?」 「おれはおれに興味はない」  Dは馬首を巡らせた。 「待て、少し出してやろう」  たちまち方針を変えたマキューラ男爵が喚いた。 「“神祖”めは、実は、わしの解いた方程式の解に異議があるのだ。確かに、あの解は複数存在し、奴とわしでは、採用したものの、導き出した分が異なっておった。そのどちらを使用しても、貴族に陽光の下を歩ませることはできる。だが、長続きはせんのだ。せいぜいが半年。二人とも解に改良を加えたが、数年のオーダーしか延命はならなかった」  嗄れ声が迎え討った。 「無駄な真似をしよる。貴族など、所詮は闇の中をうろつく獣《けだもの》よ。下らぬ思いつき、詰まらぬ希望のために、幾つの生命を弄《もてあそ》べば気が済むのじゃ」 「そこだよ」  と男爵は、見せ場が近づいてきた新人俳優みたいな興奮の表情を上げた。 「確かに、方程式の解は不完全だった。そこで、わしは地下に潜む前に、もう一度、方程式の根《こん》自体から洗い直してみた。その結果、ついに作り出したぞ。完全な昼歩む貴族を生むための方程式とその解をな」 「すると、あれか、いままでの解はすべて間違っていたと?」 「不定数値の導入ミスじゃな。存在は知っておったのじゃが、入れる場所を間違えた。無しでもOKと思いこんだ“神祖”の傲慢さは、物理学にふさわしからぬものであった。はっはっは」 「すると、貴族は永劫の昼を歩むのか?」  夜空からそっと降りかかる氷雨のようなDの声音。  男爵の笑いは断ち切られた。 「そうじゃ。わしはそれを“神祖”にも伝えた。『限定記憶空間』に封じこめた上で。奴め、大したものじゃ。空間を開いてから記憶が保つ三十分の間に、完成品をひとつこしらえよった——と言うても、DNAのことじゃが」 「おい」  嗄れ声が驚愕というドームの中で虚ろに響いた。  かつて、実体も掴めぬ巨大な存在が、Dに告げたことがある。  ——成功例は、おまえだけだ 「おれ[#「おれ」に傍点]のことか?」  とDが身をひねって訊いた。 「知りたければ、わしを連れていくか? さあ、さあ、さあ」  再び歩き出した人馬を見て、男爵は飛び上がった。 「何たる予想を裏切る男じゃ。こら、待て、待たんか。“神祖”は、当然、新しい方程式を欲しがっておるのだぞ。必ずわしのもとへ来る」  闇の向うで蹄の音が停止した。 「わかるか。わしといれば、“神祖”と会える。おまえはそれが望みではないのか?」 「なぜ、そう思う?」  声が男爵の耳の中で広がった。 「そうでなければならんからよ。彼奴《きゃつ》の望みは、貴族の根源的存在さえ揺るがすものであった。そのために、どれほどの数の貴族と人間が、生贄の祭壇に載せられたと思う? おお、泣き叫ぶ女と子供、赤ん坊の声までが甦ってくるぞ。Dよ、おぬしも、母——」  突然、男爵は両手で口を押さえた。自分のミスに気づいたのだ。だが、恐怖に満ちた瞳の奥で、黒衣の若者は、闇の平穏を留めていた。 「乗るがいい」  静かな声であった。 「おお!」  男爵は馬の方へ走り出した。途中で一回転んで、べそをかいた。不可思議な跳躍は、危険から脱出するときのみ、体現されるらしかった。  鐙《あぶみ》にも足が届かず、Dが手を貸した。 「驚くほど足の短い奴じゃの」  嗄れ声が呆れた。 「五〇センチしかあるまい」 「う、うるさい」  と男爵はDの腰に腕を廻して喚いた。 「男は足か? 否だ。二メートルもある男を女は美しいと思うか?」 「じゃあ、男は何じゃ?」 「むむむ」 「頭か? とーんでもない誤解じゃぞ。人の形をしたものの値打ちを決めるのは、ひとつしかないのじゃ。——顔よ」 「顔」  うーむと考えこんだ男爵を、さすがに呆れ果てたのか、Dは無言で馬の腹を蹴った。  一〇メートルばかり進んだとき、背後から明らかにエンジン音らしい響きが近づいてきた。  それに混じって、低く遠く—— 「助けて」  女の声である。若い。 「ほお」  と男爵が舌舐めずりをしてふり向き、不審な表情を作った。 「なぜ、止まらぬ?」  無言のDへ、 「助けを求めておる。いいのか?」  どうにも貴族とは思えぬ言動の男であった。 「仕事ではないのでな」  と嗄れ声が、こちらも遺憾そうに言ったとき、エンジン音はすでに背後に迫っていた。  男爵がまたふり返り、え? と放った。  空中に、全裸の娘が浮かんでいた。年の頃は十六、七。月光に愛でられても不思議ではない艶やかな肌と、豊かな乳房を備えていた。  全裸というのは誤りであったかも知れない。娘の腰から下は闇に呑まれていた。  昼の光の下でなら、異様に赤く厚ぼったい唇がわななき、 「助けて」  と洩らした。 「お、別嬪《べっぴん》じゃな」  と男爵がいやらしく笑み崩れた刹那、 「わわっ!?」  声だけ置いて体は前方へと走った。だしぬけにサイボーグ馬が疾走に移ったのだ。夢中でDの腰にしがみつき、何をする!? と絶叫する耳が、背後から迫る凄まじい地響きの連続を聞いた。  娘が追ってくる。だが、その足音は?  二〇メートルほど離れたところを走り寄る影は、娘のものではなかった。それは巨大な鋼《はがね》の四肢と骨組みのみで作られた機械《メカ》であった。にもかかわらず、その動きの滑らかさは生きた動物を思わせた。首が高く空中五メートルばかりに上がり、その先は娘の下半身と結合していた。 「何じゃ、これは?」  と男爵が眼を剥いた。 「谷間にこんな奴らがいるとは聞いておらんぞ」  嗄れ声も呆れている。 「あの洞窟で見た」  冷たく落ち着き払った声が言った。嗄れ声がその後を追った。 「責任はおまえにある。おまえの所有物が、あの爆発前に脱出していたのだぞ」  嗄れ声に指摘され、突然、男爵は、 「あ——」  と叫んだ。眼に記憶が甦っている。 「そういえば、見覚えがあるぞ。確か、生身の女を餌にして、人間を捕獲するための機械だ」 「誰がそんなものをこしらえた?」  と嗄れ声。  男爵は胸を張った。 「あんなもの、わし以外に作れるものか」 「それでいて忘れたのか?」 「くだらん試作品だ。ろくな成果も挙げられなかった。罰として倉庫の隅に放り出しておいたのが、脱出に成功したのだな。——ゲッ!?」  男爵の声は悲鳴に変わって、馬上から転げ落ちた。顔面にDの肘打ちを食らったのだ。  二、三度、ゴム毬みたいに跳ね返って、道の脇にひっくり返る。そのかたわらを巨大なる機械の獣が走り過ぎた。 「あ奴の所業が腹に据えかねたか?」  Dの左手が訊いた。 「重すぎる」  短く答えて、Dは馬上に跳ね上がった。手綱を左手にまかせ、立ち姿勢のまま、右手を背の柄《つか》にかける。  頭上から、娘の裸身が舞い降りてきた。 「助けて助けて助けて」  その眼には涙を溜め、柳眉は恐怖に震えている。わななく唇は同じ言葉を吐く術しか知らぬげだ。 「助けて」  骨組みのどこかから、ひゅんひゅんと黒い鞭が飛んできた。少女の哀願に骨抜きにされた男は、それに絡め取られ、肉まで剥がれてしまう。  Dの身体に触れんとした刹那、白刃《はくじん》が一閃した。  月だけが見た。  黒い鞭の残骸を讃歌に、月の方へと及ばぬまでも跳躍したDの美しき飛翔ぶりを。ああ、コートの裾が翼のごとく翻り、青いペンダントが月光と結託し、そして、手の一刀はその切れ味に月光の保証を得て。  幅五〇センチもある機械獣の首の半ばまで、Dの刀身は切りこんだ。  機械はのけぞった。四肢の痙攣は人間のそれを思わせた。のみならず、それは黒い流体を噴出したのである。  血ではない、オイルだ。だが、血のごとくそれをふり撒きながら悶える機械の姿は、断末魔の巨獣そのものであった。  そして、首の端では白い娘が、助けてと叫んでいる。いつ熄《や》むとも知れぬ「助けて」を。  唸りくる鞭を、またも切り飛ばし、Dは血を噴く頚部へ、もうひと太刀を叩きこんだ。何たる無惨——同じ場所へ。首は落ちた。  ついに巨獣は倒れた。疾駆する速度は変わらず、上体のみが前へのめって地面に触れた刹那、巨体は一回転した。勢い余って、としか言いようもあるまい。大地をゆるがし、岩を砕いて、それは呪われた前方回転を繰り返すばかりだ。  やがて、地響きも収まり痙攣も熄んで、月光が鋼の骸《むくろ》の上に立つ、黒衣の若者を照らし出す。  ずっと同じ場所に立ち、生と死とに思いを巡らせていたかのような若者を。  Dよ。  彼は巨獣の首を渡って、その先端から地面へ下りた。  足下で白い肢体が、小さく、哀しげに、 「助けて」  と呼んだ。  聞こえたかどうか。Dはふり向きもせず歩を進めた。  五歩目でふり返った。  巨体は溶暗《フェイド・アウト》のごとく透き通って、闇に呑まれていくところだった。自壊のための装置が作動したのではない。  そのとき、Dは虚空の放つ声を聞いた。  ——久しぶりだな また会うぞ  Dの左手がコートの内側へ入ったが、 「よせ、無駄じゃ」  嗄れ声が止めた。  なす術もないのか、Dよ。  少し遅れて、全身すり傷と打撲傷だらけの男爵が、半死半生の思いでその場へ辿り着いたとき、すでに刀身を収めて夜の中に立ち尽くす若者の姿は、ひどく孤独に、影うすく見えたのであった。 [#改ページ] 第四章 気高き夫人の館    1  ニエトの町には夜明けに着いた。  五千年ぶりの人間の町がよほど面白いらしく、男爵は眼を光らせて、 「ふむ、わしが眠る前とあまり変わらんようだな。ま、人間は種として低いレベルで完成してしもうた。変わりようもないか。お、あの女、別嬪じゃな。おお、あのでっかい胸。あの腰のくびれ。ひょおお、あの突き出した尻。何たる進化じゃ。前言は撤回する」 “神祖”や“進化”と縁があるとはどうしても思えない貴族であった。  Dはまず馬屋へ向かった。サイボーグ馬のメンテを行なうためである。 「おれについていろ」  と命じると、 「馬の匂いのする小屋へなど、貴族が入れるものか。ここで待つ」  とメンテ場の出入口を動こうとしない。そのくせ、Dが戻ってくると、 「おらんぞ」  と嗄れ声が呆れた。  小屋を出てすぐ、子供たちの囃したてる声が右方から流れてきた。  狭い路地で、男爵は六人ばかりの少年たちに囲まれていた。 「誇大妄想狂だぜ、このおっさん」 「何が貴族だ。昼間うろつく貴族なんかいるもんかよお。おかしな鎧なんかつけやがって。おい、石ぶつけちゃおうぜ」 「何を言う。これは貴族の鎧だ。この気品ある顔つきが見えんか?」  胸を張る男爵を、少年たちは軽蔑の眼で見下ろした。みな、頭ひとつ分大きい。 「この禿頭、カタリだぜ。タコ入道みてえな顔して、何がキゾクだ。おい。虐められたくなかったら金出しな」 「何を言うか、人間の餓鬼めらが。本物の大貴族に会えただけでも有難いと思わんか。ふざけたまねをしたら、折檻してくれる」 「やってみなよ、チビハゲ」  一番大きな少年が男爵の前に出た。 「むむむ」  たじたじと後退しながら男爵は、 「餓鬼ども——三十六計という言葉を知っておるか?」 「何だよ、それ?」 「これじゃ」  いきなり、背を向けて走り出した男爵に虚を衝かれたのも束の間、 「追っかけろ!」  号令一下、地を蹴るや、あっという間に取り囲んでしまった。足の長さが違う。続いて、 「やっちまえ!」  襲いかかる少年たちに、小さな身体はたちまち呑みこまれてしまった。 「およしなさい」  静かな声がかかったのは、数秒後であった。  少年たちが暴力の手を止めたのは、その女の声が、あまりにも静かで品があったのと、その声の主の正体を知悉していたためである。 「ミリアン夫人!?」  上品なシルクのスーツに身を包んだ女性は、夫人の名にふさわしからぬ若い美貌を備えていた。  少年たちの眼は、そのかたわらに立つ、壁が黒服を着たような男に向けられていた。馬用の鞭を握っているところからみて、御者兼ガードマンだろう。 「助けてくれ」  と彼の背後に廻りこんだ男爵の頭からは、血がしたたっていた。 「札つきの子供たちね」  とミリアン夫人がにらみつけた。 「貴族の森でひと晩過ごすよう、治安官に言いつけてあげましょうか? 今度見かけたら、許しませんよ!」 「ちえっ、ヒス女」 「男ひでり」  悪口を投げつけて、子供たちは走り去った。 「何たる餓鬼どもだ。大人への尊敬の念などかけらもない。やはり、人間じゃな」  ぶつくさ言う男爵を、涼やかな眼が見下ろした。この夫人も長身であった。 「——人間とおっしゃったところをみると、まさか——」 「おお、貴族じゃ」  と胸を張り、急にしおたれて、 「誰も信じぬがな」 「確かに」  と夫人はしげしげと男爵を見つめて、笑いを噛み殺した。 「地には影が映り、何より陽光を浴びていらっしゃる。貴族だという証拠はございますの? 蝙蝠《こうもり》に化けて空を飛び廻るとか」 「ああいうのは、人工貴族どもの芸当じゃ。わしは——」  男爵の声を止めたのは、額から流れ出した血であった。それは鼻の脇を伝わり、唇に達していた。 「このとおり、本物でな」  男爵は口を開いた。二本の牙が夫人の眼を引きつけた。別人のごとき妖気に、夫人は立ちすくんだ。  ぬう、と壁男が前へ出るのを、トーテム、と押し止め、 「本物の貴族」  呆然とつぶやいた。 「そうじゃ」 「なら……お願いがございます」  くぐもった声が、男爵をにんまりとさせた。貴族の勘が何を感じたのか。 「ここでは少々……よろしければ、私の家へ」 「いいのか? わしは貴族だぞ」 「だからこそ、お招きいたします」 「よかろう。その代わり、何か起こっても怨みはするな」  若い美女の首すじへ、遠慮のない視線を注ぎながら、男爵は舌舐めずりをした。チビ、デブ、ハゲと三拍子揃っていようとも、彼が貴族なのは、間違いのない事実なのだった。  付近を捜してもいないと判断するや、Dは真っすぐ治安官のオフィスへ足を運んだ。  デスクの向うで陶然となる男へ、 「この町でいちばんの変わり者を教えてもらいたい」  と告げた。治安官は少し考え、 「それなら、ミリアン夫人だ」  と答えた。 「町の西の外れにある森に住む未亡人だ。二年前に旦那を亡くしてから少しおかしい。貴族に関する資料を国中から収集しているらしい」 「夫を貴族にでもするつもりかの?」  Dの声が急に変わったので、治安官は我に返った。凄まじい眼つきでDをにらみ、 「町の者に、今みたいなことを口にしてみろ、その場で私刑《リンチ》だぞ。おれも、おまえが首を吊られてから止めにいく。あの女性《ひと》のことを傷つけたり茶化したりするのは、一切許さん」 「ほう。それほど愛されておったのか?」 「あの女性だけじゃない。ご主人も立派な人だった。この町の発展の基礎をつくり、苦しいときだけ先頭に立った。町が落ち着くと、あらゆる名誉や功利から手を引いて一町民として暮らした。今でも町中であの女性を援助し、みじめな思いは決してさせておらん」 「それはそれは——ぎゃっ!?」  揶揄するような声を握りつぶし、Dは背を向けた。 「邪魔をしたな」  ようやく治安官は美の魔力から解けた。 「何をしに来た? 何処へ行く? あの女性におかしなまねをしたら——」  ドアが閉まった。  治安官は血相を変えて、伝書鴉の篭にとびついた。  馬車を下り、その館をしげしげと見上げるとすぐ、男爵は、わあと呻いて前方へでんぐり返った。  ——危《やば》いかな  だが、もし、町の者が同行し、いまの彼の胸中を読み取ったら、何が危いのかと首を傾げるであろう。  陽光の下で男爵を迎えたものは、緑に閉ざされた瀟洒《しょうしゃ》華麗な城館であった。  玄関には正装の執事が出迎え、広大なホールに並んだ下女たちが一斉に頭を下げる中を、男爵は堂々と肩で風を切りつつ夫人を先導に廊下へと入った。この辺は貴族としか言いようがない。  長い廊下を渡り、通された客間も絢爛たる調度を誇っていた。何もかもガラスと水晶で出来たような家である。  四方をきょろきょろ見廻し、家具を点検し、窓から顔を出してやっほーと叫び、ベッドの上にひっくり返っているうちに、夫人とトーテムがやって来た。  グラスに入った飲みものを一口飲って、 「血だな」  男爵は舌舐めずりをした。 「貴族の方には最高のおもてなしかと」  いよいよ、この女おかしいぞ、と男爵は確信した。自宅へ貴族を招き、その大好物をふるまう。正気の沙汰とはいえなかった。自然と笑みがこぼれてくる——邪悪なる貴族の笑みが。  グラスを置いて訊いた。 「で、もてなしの御礼は?」 「はい」  と夫人はうなずいた。 「夫を救って下さいませ」 「ほお」  夫人は立ち上がった。 「お話よりもまず、本人に会っていただきます。細かいお願いは、その後で」 「迷ったの」  左手が声をかけたのは、町からミリアン夫人邸へと続くはずの道へ入ってすぐだ。  前方に見える橋と小川は、確かに数分前に渡った。 「このまま進んでも同じことじゃぞ。貴族の仕掛けじゃろうが、自然に作動するのか、人間どもが動かしておるのか——どうする?」 「わからんか?」 「ふむ、出るのは簡単じゃが、あのチビハゲ貴族、どう考えてもまともな時間《とき》を過ごしているとは思えん。いい気味じゃ、少し放っておいたらどうだ? はしゃぎ過ぎの奴には、いい薬じゃぞ」 「薬で済めばいいがな」 「わかった、わかった。いま、道を作るて」  Dは手綱から左手を離し、自然に下ろして広げた。  手の平に小さな顔が現われた。 「さすが貴族の迷路じゃが、どうやら住民用だ。風のみで大丈夫じゃろう」  言うより早く、ごおと空気が鳴った。  両脇の木々がゆれ、大枝が木の葉が、一斉に左手へと吹きなびく。手の平の小さな顔——その中のさらに小さな口。それが凄まじい勢いで空気を吸引しているのだ。  あまりの強風に景色まで歪んだ。木の橋は崩れ、木はちぎれ——そして、色さえ失った靄と化して、手の平の口に吸いこまれた。  口が閉じた。  風がぴたりと熄《や》む。  サイボーグ馬がいなないた。  人馬はもとの位置に立ち、前方の橋と川は忽然と消滅していた。  サイボーグ馬の踏まえた道が、長々と続いているきりだ。  行くぞとも言わず、左手を労いもせず、Dは馬の脇腹を蹴った。  銃声が轟いた。  Dの左肩から鮮血とコートの破片が朱色の噴出を示した。    2  Dは馬首を巡らせた。青白い天与の美貌に苦痛の色はない。  道の向うで、 「やったぞ」  という声が上がった。一〇〇メートルばかり後ろで、単発式の長旋条銃《ライフル》を構えた男が膝立ちになり、数人の男たちがその肩を叩いている。 「おかしな真似しやがってえ」 「治安官からの伝書鴉で、迷路を操作したらこの様《ざま》だ。奥さんをどうこうしようって奴は、みんなこうしてやる」 「おっ、まだ生きてるぞ。一発、食らわせてやれ」  また肩を叩かれ、長旋条銃の男が桿《レバー》を操作して、光る円筒を弾き出した。真鍮の空薬莢《エンプティ・ケース》である。長旋条銃を肩にもたせかけて、腰の弾丸帯《アンモ・ベルト》から太い弾丸を一発抜き取り、装填する。  桿《レバー》を戻すまで操作に気を取られていたところをみると、専門《プロ》の射手ではない。「迷路」操作を担当する近隣のグループの中で、一番射撃が上手い——それだけであろう。  銃床を肩付けすると同時に標的を捉える。  げっ!? と喉が恐怖の叫びを放った。  Dは一〇メートルまで接近していた。その速度の異常さは、射手の仲間が声ひとつかけられず、茫とすくんでいたことでわかる。  プラス——彼らは見てしまったのだ。男の魂さえ奪うDの美貌を。  射手はそれでも射った。弾丸の行方は永久にわからず、彼らの頭上をサイボーグ馬が飛び越えた刹那、長旋条銃の男の右腕は肩から落ちた。  ようやく放った絶叫に自ら驚いて、男たちは森の中へと跳びこんだ。  地べたを血に染め、のたうつ射手へ、Dは静かに近づいた。馬からはもう下りている。  男のかたわらに立った。風がコートの裾を翻し、男の鼻先に突きつけた長剣、血の海に苦悶する敵——白い陽光の下で、なんという美しい光景か。闇色と死と鮮血が、なんとふさわしい男なのか——Dよ。 「出血を止めねば死ぬ」  冷やかな声——その声で告げられる事実の、なんと不気味なことか。  苦痛さえ忘れて男はDを見つめ、その眼を恍惚と煙らせた。 「あ……助け……て……くれ」 「手当てはしてやる。その後で問いに答えろ」  男はうなずいた。眼はDから離れていない。  Dは左手をのばして男の傷口に当てた。  次の瞬間、流血は時間が止まったかのようにぴたりと収まり、男の全身が弛緩した。痛みは消滅したのだ。  その鼻先で白刃が閃いた。 「ミリアン夫人とは何者だ? 貴族との関係は?」  男が大きな息をひとつ吐いた。  部屋には光が満ちていた。さっきまでいた客間より光景は勝っている。だが、白いレースのカーテンをゆらして吹きこむ風も光も、室内を占める死の翳は、如何ともしがたかった。  部屋の中央——豪奢な寝台に横たわるものを、男爵は見下ろした。  干からび、黒ずんだミイラの、わずかな毛髪が残っているだけに骨組みを露わにした顔も、剥き出しの歯と歯茎も、陽光の中で闇の間よりも不気味に映る。 「夫のジャウルでございます」  夫人の声には、嘘いつわりのない哀しみが満ちていた。 「ふむ」  怖れる風もなく、男爵はひょこひょこと歩み寄って、子供ほどのサイズの顔に手を当てた。 「ふむ」  訝しげに眉を寄せ、 「この」  と両手で顎を掴んで強引に口を開けさせ、 「うぬ」  石にくびれをつけたような瞼を開かせた。行為はふざけているが、男爵の眼は真剣であり、顔つきは真理探究に没頭する一学者を思わせた。 「うむ」  と彼はミイラの腹のあたりを、上掛けの上から叩いて、 「生きている、な」  と言った。  夫人とトーテムは顔を見合わせ、夫人の方は両眼を熱く潤ませた。 「ああ……とうとう」  声を詰まらせ、 「……とうとう……現われましたわ、あなた。あなたを甦らせて下さる方が」 「亭主か恋人か、それとも情人《いろ》か?」 「夫でございます」 「なんで、こんな不様な姿をさらしている?」  ズケズケと口にする男爵に、夫人は立腹の風も見せなかった。期待と感動が胸を埋め尽くしていたのだ。男爵をじろりとにらみつけたのは、トーテムの方であった。 「はい」  うなずいて、夫人は絹のハンカチで目頭を拭った。どう見ても愛する者を失った未亡人である。 「夫は貴族の研究家だったのでございます。この館は、貴族の夏の別荘でした。夫はここを五年前、町から借り受け、貴族の生態やその技術について研究を開始したのです」  その結果、幾つかのノウハウが解明され、使用可能となった。空間歪曲技術による迷路や光学兵器、貴族ならではの超人的な体さばき等である。  彼はそれを住民に伝え、絶大な支持を得た。この館も永久使用を許された。  軌道に乗った研究は、ミリアンの夫をさらに奥へと導いた。限りなく深い闇に閉ざされた奥へと。 「夫は貴族になりたくなったのです」  貴族を知るにつれ、夫の興味は、彼らの成し遂げた文明文化よりも、彼ら自身の生物としての資質《クオリティ》に移行していった。闇の奥で夜光虫のように妖しくゆらめく言葉があった。  不老不死。 「夫はまず、貴族にならずにそれを得ようとしました。そして、ついに失敗を悟ったとき、撤退よりも、貴族になることを選んだのです」 「愚か者が」  男爵は吐き捨てた。 「その結果がこれか? ミイラと化して、限りある生命を細く侘しく使う——確かに長生きはできるだろう。しかし、それは動かぬ生ける屍と変わらんよ」 「戻して下さいませ」 「なに?」 「夫をもとの姿に返してやって下さいませ」  悲痛な言葉に、男爵はあっさりと応じた。 「無理だな」 「——どうして!?」 「愚か者ではあるが、おまえの亭主は、実にいいところに眼をつけた。そのための方法論も実践も申し分ない。ひとつのミスもない。人間が、血を吸われずに貴族の仲間になるのは不可能だという点以外はな。こうなったのは、至極正しい結果だ。このまま放置しておけば、三百年は保つだろう。飲まず食わずで、ただ呼吸するだけのミイラと化してだが」 「ですが……あなたは陽の下を歩ける貴族です……それならば、夫をもとに戻すくらい……」 「ふむ……」  男爵はベッドの干からびた顔と美女を見比べていたが、不意に夫人の顎に手をかけてのけぞらせた。 「別嬪じゃなあ。そういえば、他の連中と違って、わしは人間の女の味を知らん。研究に没頭していたものでな。——うおっと!?」  丸まっちい身体は、一気に三メートルも跳びずさっていた。もとの位置に、凄まじい殺気が人の形に凝結していた。トーテムである。 「忠実な召使いの前で、主人を侮辱してはいかんな。だが、わしの言わんとしたことはわかったろう」  前へ出ようとするトーテムを夫人が止めた。  上目遣いに男爵を見る眼差しには、憎悪と——拭いようもない官能の光があった。 「承知いたしました。ですが、血を吸うことは……」 「わかっておる」  男爵はいやらしく破顔した。猫なで声であった。 「人間どもは誤解しておるようだが、我々の聖なる吸血行為ばかりが、欲望の解消ではないぞ。人間並みの男女の行為もちゃあんと可能なのだ。わかるか、でくのぼうめが。さあ、女よ、こちらへ参れ」  と手招きする。  眼を伏せて、夫人は男爵に近づき、その手を取った。 「寝室はこちらでございます」 「うひょお」  と男爵は恥ずかしげもなく歓んだ。手まで打つ。無邪気というより足りないのではないか、という蔑みの笑いが夫人の口もとをかすめたが、彼は気にもせず、先に立って、ドアノブに手をかけた。 「さあ、来い」  ドアを開いた刹那、凄まじい力で背中を押された。貴族といえど、通常の重さは人間と変わらない。わわっ、とつんのめった後ろでドアが閉じ、待て、と喚いたきりで、彼は失神した。  人間でも発狂しそうな臭気の中で、意識を持たぬ身体がのたうち、痙攣し、嘔吐した。  狂気じみた動きが熄《や》んでから、しばらくして、窓という窓が音もなく上がりはじめた。男爵が入ったとき、室内はすでに、貴族に対して人間が知る唯一の対抗法——ニンニクの臭気で満たされていたのである。  ふたたび開いたドアの向うに、二つ目の影が立っていた。 「意外とたやすく——莫迦な貴族がいたものですね」  巨大な影が嘲笑した。 「陽の光の下を歩く——それだけで、貴族ではあり得ないわ」  しなやかな影も笑った。  冬の冷気が室内を満たしつつあった。穏やかな陽光の下に貴族が倒れている。その中に、主人と執事の笑い声ばかりが高く低く鳴っていた。  気がつくと脳が痺《しび》れていた。  ——嗅覚がやられたな。  まず、こう考えた。何をされたかは、失神を決める前に明らかだった。貴族の身体が不死の再生機能を備えているといっても、この伝統的な攻撃法から回復するには、最低三日を要する。  ついでに、神経の麻痺は丸一日かかる。それなのに、念には念を入れるつもりか、男爵の身体は、皮ベルト三本でベッドに固定されていた。  周囲は石造りの部屋で、備えてある装置や照明から、一発で手術室とわかる。左右から二つの影が男爵を見下ろした。  白衣に手術帽にマスク、ゴム手袋をしてはいるが、眼が正体を明かしていた。 「貴様たち、最初から、わしをたばかるつもりでいたな? 許さんぞ」 「お許し下さいませ」  と夫人が詫びた。眼差しも声も冷やかなまま。 「夫は最期が近づいたとき、自らの治療法を書き残しておりました。貴族の血を輸血せよ、と」  男爵は眼を剥き、えーっ!? と身悶えした。 「すると、一から十まで嘘だったのか。この人間どもめが。わしは治してやるつもりだったのだぞ」 「私と引き換えでございましょう」  夫人は手にしたメスが放つような声で言った。 「正直、うまくいくかどうか不安でしたが、こんなにも順調とは。私、貴族に感謝いたします」 「なんのなんの。ところで、輸血にメスは必要あるまいて」 「指示には、輸血の後で前頭葉を食させよ、と」  男爵は喚き出した。 「おまえな、それは間違っておるぞ。大きな勘違いだ。非科学の極みだ」 「貴族は脳を失くすとどうなるのでしょうか?」 「おお、それはわかっておる。貴族の中にもノイローゼを患う奴がおっての。安楽死を条件に、あれこれ実験をさせてもらった。脳も再生する」 「なら、おあわてにならなくとも」 「再生するまでが地獄でな。欠損量によるが、三日三晩苦痛に泣き叫ぶのだ。その後も、少しおかしい。わしは御免だ」 「でも、夫のためです」 「おい、やめんか」  男爵はリアルにじたばたしはじめた。  ベッドのきしみを聞きながら、夫人は哀しげに首をふった。 「あなたの縛《いまし》めは、貴族の怪力の十倍にまで耐えられるように作ってあります。お許し下さい」  メスの刃が男爵の額に当てられた。  繊手《せんしゅ》に力がこもったとき、窓ガラスが小さな音をたてた。    3  手首を押さえる前に、メスは床に落ち、夫人は後退した。  押さえた指の間から生えているのは、白木の針であった。  忽然と陽が翳った。小さな貫通孔を空けた窓が闇色に染まったのだ。  闇はガラスを四散させ、床の上で黒衣の若者の形を取った。 「D」  音もなく進むハンターと立ちすくむ夫人の間に、トーテムが割って入った。  Dの顔面へ右ストレートが躍る。Dはそれを左手の平で受け止めた。 「うおっ!?」  叫んだのは、誰が聞いても手の平であった。  Dの身体は窓際まで突きとばされたのである。 「気をつけろ」  とベッドの上から男爵が喚いた。 「そいつは妖術製マシン・マンだ。物理的手段じゃ斃《たお》せんぞ」  トーテムは右方の壁に近づいた。長剣がかけてある。飾り用だが本身だ。抜いてひと振りした。  巻き起こった風が窓ガラスを鳴らす。  ぐい、と前方へ突き出し、左手を立ててバランスを取る。  Dの背が鞘鳴《さやな》り音をたてた。  トーテムの表情が変わった。Dも右手をのばし、左手を立てていた。  どちらからともなく、刀身が躍った。  光が交差し、片方が斜めに陽光を断った。  床が重い音をたてた。  トーテムの腕は剣を握ったまま、肘から切断されていたのである。Dを突き放し得たのも道理、切断面からのぞく骨格はかがやく金属、神経は銀コードの束だ。そのコードがしたたり、床と腕とを打った。  同時に、床上の腕からも、びらびらと銀色の糸が噴出した。そして、空中でつながるや、たちまち溶け合い融合して、切り離された腕を持ち上げ、切り口を重ねたではないか。  貴族の不死身性とは、再生不可能なはずの神経までも甦ることを意味する。しかし、これは無機質のコードではないか。術だ。貴族が開発した妖術によって、非生命体もまた生命と再生能力を得る。 「マシンにかける妖術は、領主クラスでも身につけられん。その女の亭主が探り出したとしたら、ただ者ではないぞ——うっ」  トーテムが突進した。  速さでは互角の剛腕の突きがDの胸を狙う。その眼前でDの身体が廻った。  トーテムの切尖は十分の一秒の差で空を突き、回転するDの左の拳が、その脇腹を打った。  低く呻いてトーテムはよろめいた。いつ抜いたのか、白木の針が半ばまで埋もれている。銃弾も跳ね返す強度を誇る合成皮膚と筋肉とを、紙のごとく貫いたのは、Dの技か怪力か。  向き直りつつ滑り出た必死の突きは、またも空を刺し、頭上からふり下ろされた非情の刃《やいば》に頭頂から顎先までを両断されて、巨体は仰向けに倒れた。  数万本のコードが、触手のごとく両方の切断面からうねくり出してくる。  火花が散った。触れ合ったコードが激しくのけぞり、鎌首を垂れる。二度とつながることもなく、最後の二本が息絶えたのは、数秒後であったが、Dにはそれを確認する暇もなかった。  彼は男爵を見た。貴族の苦鳴の解答はそこにあった。  男爵の剥き出しになった右腕から、真紅の管がかたわらのベッドの上掛けから突き出た枯れ枝のごとき腕に吸いこまれていた。  その向うに夫人が立ち尽くしている。その顔が、血ほどにも赤く染まっているのは、言うまでもなくDの美貌の魔術だ。 「あなた」  と夫人が言った。つぶやきではない。呼びかけであった。  Dはベッドを見た。  ミイラは上体を起こし終えたところだった。 「気を……つけろ」  寝台の上から、男爵のか細い声がやって来た。  脂ぎった皮膚は乾き、眼は虚ろで、小太りのミイラを思わせた。 「妖術マシンを……こしらえた奴だ……自分も……」  みなまで言わせず、ベッドから躍り出たミイラがその心臓へ右腕を刺し通した。手首から先が剣に変わっているのをDは見た。  ぐええと呻いて悶絶した男爵からそれを引き抜くや、ミイラはDの姿を澱みきった瞳に映した。 「あなた……」  夫人が背後から駆け寄り、抱きついた。  まさか、その腹部を横からミイラの——夫の右腕が刺そうとは。  今度のあなた[#「あなた」に傍点]は苦鳴であった。  崩れる女には眼もくれず、Dは一刀を打ち下ろした。  再生機能を有するメカニズムさえ切り滅ぼしたDの一刀を、ミイラは両手を交差させて受けた。  光はそれを両断して、ミイラの頭頂に食いこんだ。  美しい響きとともに、刀身を跳ね返した兜は、ミイラの頭蓋骨が瞬時に変化したものと思われた。  跳ね戻って首へと走る刀身が触れる寸前、そこは鋼《はがね》の装甲で覆われていた。  いや、全身が黒々と陽光を跳ね返したではないか。 「これが噂の“鉄人”かの」  左手が低くつぶやいた。  細腕が変化した部位は知らず、しかし、ミイラの身体は明らかに、その皮膚や肉や骨が変貌した装甲で覆われていたのである。  顔すらも鉄のマスクに覆われてわずかに露出した眼を見つめ、Dは、 「しくじったな」  と言った。 「貴族の技術を人間が身につけるのは、その生物学的本質から不可能だ。ただひとつ増幅されるのは、残虐性のみだ」  ミイラの両眼が赤く燃えた。  灼熱の光条がDの胸を赤く貫いた。ミイラの眼球は一種の熱線——赤外線を応用したものだろう——放射器に変わっていたのである。  Dの左手が上がった。  真紅の光が、炎を噴き上げるDの胸部へとふたたび走る。光は見た。手の平に生じた小さな顔を。  その口が尖った。長く細い吐息が糸みたいに吐き出された。熱線がぼやけたのは、その息を浴びたせいか。  熱線が下方へずれた。  かっと小さな口が開いた。赤いかがやきは、血の流れのようにその内側へ吸いこまれた。この世に光を食らう口があり得るか。 「スタミナ満タンじゃ」  という声を、ミイラは聞いた。  Dの胸はなお炎に包まれ、しかし、彼は黒い風となって床を蹴った。  灼熱のビームはDの体内で生命エネルギーに変換され、彼を燃え上がる人型に見せた。  ミイラの頭上へふり下ろされた刀身にいかなる量のパワーが秘められていたか。ミイラを守るべき鋼の装甲は頭頂から股間まで紙のごとく両断され、さらに横から迸《ほとばし》った一刀で、四つの肉塊となって床に転がったのである。  血は流れなかった。最初からなかったのだ。  刀身を収め、男爵のベッドに近づくDの耳に、あなた、と地を這う女の声が届いた。 「私たちは……どこで……間違ってしまったのでしょうか? あなたはただ……貴族の秘密を……人々の役に立てたいと……私はそれを……見守っていた……だけなの……に」 「ほう、あの女、四つになった亭主のもとに這いずっていったぞ」  ベッドの上で、心もち青ざめたマキューラ男爵が、両眼をかがやかせた。 「自分を刺した男だというのに、何を考えておるのだ。むむ、抱きしめておる。あれは涙か? なぜ、泣く? おまえの斬り方が、あまりに見事だったからか? げっ!?」  横たわっても山のような腹へ、猛烈な一撃を加えて黙らせ、Dはそれが仕事のように、床上の死者たちを見つめた。  ミイラの死骸を集めてすがりつき、夫人はこと切れていた。  もう一発、男爵の腹に叩きこんで覚醒させ、ひいひい泣き叫ぶのを自由の身にすると、Dは先に立って部屋を出た。  蒼空と風とサイボーグ馬とが迎えた。三つの死を生んだ若者を。  よろめきよろめき後をついてきた男爵が後ろに乗ると、門の方からおびただしい人馬が駆けこんできた。 「何じゃ、こいつらは?」  男爵がDの背後に隠れると同時に、武装した騎手たちは二人の行手をふさいだ。 「ミリアム夫人はどうした?」  馬上で尋ねたのは、治安官であった。 「死んだ」  とDは答えた。 「誰が殺した?」 「夫だ」  どよめきの波が巻き起こった。男たちは顔を見合わせ、何人かは腰の杭打ち銃に手をかけた。  Dはサイボーグ馬に乗った。  男たちの顔が驚愕を剥き出しにした。馬たちが彼らの指示を無視して、自ら道を開けたのだ。 「何処へ行く?」  と治安官が訊いた。 「わからん」 「本来なら、すべてを明らかにし、巡回裁判所が来るまで拘留しなければならん」 「そうするか?」  Dはすでに馬たちがつくった道へ足を踏み入れていた。 「行け」  と治安官は顎をしゃくった。 「その代わり、ここであったこともみな忘れろ。ニエトの町は、おまえたちを知らん」  黙々と歩み去る人馬の影に、次の言葉が聞こえたかどうか。 「あの二人は、村の恐怖だった。貴族そのものだった……あいつらは、人間ではなかったんだ」  そして、彼には聞こえた。二つの影のうち、小さい方がうす笑いを浮かべて洩らしたひとことを。 「いいや、人間だ」 [#改ページ] 第五章 死の約定    1  まだ強い陽ざしが、街道を外れた奇怪な一角を白く灼いていた。  あらゆる音を吸いこんでしまったような青い土地——木立ちと草と苔で作られた世界。そこに数千年の滅びを見ることはたやすい。朽ちた城壁と回廊、石段、天を仰ぐ石像、奇妙な交差を見せる黄金のレールは四次元稼働装置の残骸であろう。  どんな貴族のものか。すべてが青く苔むし、蔦に覆われ、歳月の静かな無惨の中に朽ちていた。  ただひとつ、そこだけは貴族の夜の名残りをとどめた澄んだ水の国——広大な噴水池のほとりに、Dと男爵はいた。  ニエトの町を出てから一時間。昼の行軍に男爵が顎を出したのである。 「もういかん。死ぬ。焼け死んでしまう。助けてくれ」  ついに脱水症状を引き起こして落馬するに及び、Dは折りよく通りかかったこの場所に光を避けたのであった。  襟首を掴んで水に浸け、一〇〇メートルもあるヨウカイジュの木陰に入ると、男爵は水を得たスポンジのごとく生気を取り戻した。 「やはり、陽の下をうろつくのに、まだ慣れておらんな。Dよ、おまえはどれくらいかかった?」  返事はない。Dは大理石の岸の上で青い水面《みなも》を見つめている。男爵は肩をすくめ、 「産まれ落ちたときからか。ふん、目下、わしの理論と技術の成功例は、おまえだけらしい。いいや、あの時点では、技術的完成はいまだしだった。さすがは、あいつ[#「あいつ」に傍点]と、口惜しいが言わねばならぬだろう。現にわしは身体中ひりひりだが、おまえは陽光など蛙の面に小便と見える」 「何たる下品な奴め」  男爵は眼を剥いた。 「おまえか? まさか、な」  じろじろとDをねめまわしたが、顔だけは避けた。 「まあ、わしの研究は純粋な貴族のためのものだったが、おまえは違う。人間の血が混じっておる。だからこそ、平気で陽の下を歩けるのだ。いわば出来損ないゆえの怪我の功名かのお。あいつ[#「あいつ」に傍点]も、気まぐれな真似をしたものだ。そうそう——」  男爵の口もとが邪悪に歪んだ。 「おまえの仲——」  Dがふり向いた。男爵の方を。  同時に男爵が後ろを向く。街道へと続く通路から、鉄蹄の轟きが押し寄せてきたのである。 「なんだ、ニエトの治安官どもか」  不安げな表情を隠さず、男爵は立ち上がると、ひょこひょことDの後ろへ廻った。  サイボーグ馬は十頭を数えた。治安官たちより遥かに重装備で、全員、埃で真っ白に近い。遠くからやって来たものだろう。 「我々は『都』の巡察隊だ」  と横並び中央の騎手が言った。 「おれは隊長のスミス。あんた方のひとりが、昼間も歩ける貴族だというのは本当か?」 「嘘じゃ」  とDの背中から声がした。男爵の丸顔が半分のぞいている。 「何処で知った?」  とD。馬上から見下ろす男たちの表情はすでに夢うつつだ。 「サトリの村へ行く途中だ。伝書鳩でな」 「何の用だ?」 「おお。その貴族を渡してもらいたい」  ぐいとのばしたごつい指の向うで、男爵の顔が見えなくなった。 「理由は?」 「『都』の法務局の保管庫から、マキューラ男爵に対する拘束状が発見された。彼は、復活から百日以内に最寄りの裁判所に連行され裁かれる」 「何の容疑だ?」 「大量虐殺」 「ほお」  Dの声が急に嗄れたので、男たちは顔を見合わせた。 「——それと結婚詐欺だ」 「………」  今度はDが眼を閉じた。言語に絶するとはこのことであろう。  スミスは咳払いをして、 「マキューラ男爵は、三〇二二年の秋から五〇四九年春にかけて、ざっと五十万人の老若男女を捕らえ、殺害した罪で、五〇五一年の夏に告訴されている。原告はラ=ヌヴァル地方の村民九十三名だ。男爵はざっと七千年前、この地方——今ではヌベルと変わったが——で五千人の子供を虐殺した上、ざっと未亡人六百名余を結婚を餌に館へ招いて殺害しておる」 「ほお」  嗄れ声であった。男たちの表情が変わり、馬たちがいななき、後じさった。突如、晴天はそのまま、空気のみが秋霜化《しゅうそうか》したかのように感じたのである。 「違う!」  叫びはDの背後で上がった。 「殺したりはせんぞ。子供たちはすべて、崇高なる実験に使ったのだ!」 「五千人か」  Dの声に、男爵は半分に縮まったように見えた。 「そうだ。いや、わしは強制などした覚えはない。実験の目的をこと細かく聞かせ、選択は彼らの意志にまかせたのだぞ。どうだ、わかったか?」 「記録によれば、催眠術を使ったとあるぞ」  男爵はスミスをにらみつけた。 「そ、それは交渉を円滑に運ぶために、便宜上——」 「どんな目的だ?」  とスミス。  全員の視線を受けて、男爵はいたたまれないみたいに、四方を見廻していたが、ついに覚悟を決めたらしく、 「人は貴族に、貴族は人に——じゃ」  と胸を張った。  Dの眼が光った。それだけだ。男爵の言葉に含まれた怖るべき意味が、スミスたちには理解できなかったのである。 「抗弁は開廷のときまで取っておけ。とにかく、七千年前、人民裁判所はこの提訴を受けた。被告が貴族ということで、提訴の効力は無期限だ。ここから最も近い裁判所はダーリットンになるが、行くまでにひと月はかかる。それより、西にあるザッパラなら、七日後に巡回裁判所がひと揃いやって来る。そこまで来てもらおう。——異議があるか?」  最後のひとことは、美しいハンターに向けられたものである。 「ある!」  断固として叫んだ。男爵が。Dを見上げて、あるだろ、なあと、コートの裾を掴んでゆする。男たちはまた顔を見合わせた。呆れ返ったのである。 「無い」  とDは言った。 「え——っ!?」  誰の叫びか言うまでもあるまい。 「おまおまおまえは、あいつに会いたくないのか?」 「連れていけ」  もはや男爵など忘れ果てた——いや、最初から存在しなかったかのごとき、非情なDの応答であった。 「わかった」  スミスが顎をしゃくると、何人かが下馬した。  男爵はちょこまか逃げ廻ったがたちまち捕まり、ビニール製の手錠をかけられ、護送用のサイボーグ馬に乗せられてしまった。 「邪魔したな」  ようやく笑顔を見せたスミスへ、 「礼には及ばん。おれも同行する」  とDは言って、眼を剥かせた。 「邪魔にはならん」 「しかし……どういうことだ?」 「この辺は危ない。ひとりでも多い方が気が楽だぞ」 「そうかも知れんが……」  スミスは考えこんだ。リーダーの苦悩だった。数秒でDを見、首をふった。 「やはり、やめておこう。流れ者の力を借りるわけにはいかん。それとも、君が男爵を連れていく目的を話してもらえるか?」  Dは無言であった。沈黙の距離が遠くのびた。  四歩ほど後じさり、スミスはサイボーグ馬をもと来た方へ向けた。安堵の色が顔を流れた。  人馬が一斉に走り出す。 「助けてくれ、人殺し」  と男爵が叫び、右脇を固めた男にこづかれた。 「つまらんことを、いつまでも根に持ちよって。助けてくれ、助けてくれ。殺される」  人聞きの悪いことを抜かすな、この貴族め、と罵声が遠ざかっていく。  その姿と鉄蹄の轟きが城壁の向うに消えてから、 「いいのか?」  嗄れ声が訊いた。  Dは黙然と鞍に乗り、馬首を巡らせた。 「なるほど。勝手に尾いていく分には、奴らも文句は言えんからな。ま、ゆっくり追いかけるとするか」  その瞬間、四本の脚が土を蹴った。 「うわわ——どうした?」  驚きの声はすぐに消えた。  巡察隊が走り去った方角から、銃声が響いてきたのである。 「野盗か!? これは面白い。あのチビハゲ貴族——今度はどう扱われるかの?」  ひひ、ひひと笑っているうちに、前方に人影が見えてきた。  左右を岩山が囲んだ街道の一角である。銃声はすでに熄《や》んでいた。 「止まれ」  路上のひとりが、こちらへ連発式の火薬銃を向けた。険しい表情なのに、殺気は感じられなかった。 「おい、さっきと同じ制服を着ておるぞ」  嗄れ声がささやいた。男が銃を下ろし、 「自分たちは、『都』の巡察隊です。我々に化けて重要人物を連れ去ろうとした野盗どもと遭遇し、殲滅しました。申し訳ないが、迂回してください」  その方がよさそうな光景が、眼前に広がっていた。  横倒しになった人馬は血にまみれ、焼け爛れ、何頭かはまだ痙攣をつづけていた。空しく宙を蹴る脚は、近づいてくる死を押しのけようとするはかない試みに他ならなかった。    2 「おーい、Dよ」  左方の岩山の中腹で、卵みたいな形が手をふっていた。左側に立つ二メートルに近い大男と手をつないでいるため、太った子供のように見えるが、男爵だ。  両側の岩山には、火薬銃片手の制服姿が数名ずつ立って、こちらを見下ろしていた。  髭だらけの大男が男爵と一緒に道路へ下りて、Dの近くへ来た。 「巡察隊長のスミスです」  と鍔広帽の縁に手をかけて挨拶する。人懐っこい笑みを、下から男爵が好もしげに見つめていた。 「いま男爵からうかがったところによると、こいつらのリーダーも、自分と同じ名前を名乗っていたとか」  Dは沈黙していた。  スミスが顔を背けた。 「爆薬も使って皆殺しか」  とD。酷いとも惨いとも言わぬのが、この若者らしい。 「抵抗したもので。この貴族だけを無傷で捕えられたのは強運でした」  新しいスミスは白い歯を見せた。腰のベルトから黒い円筒がぶら下がっている。手榴弾だ。 「彼は我々が預かって『都』まで護送します。さ、もうお行きなさい」 「その男はおれが連れていく」  とDは静かに言った。  スミスの口があんぐりと開いた。眼を虫のように細めて、 「どういうこったい?」  がらりと言葉遣いが変わった。右手が上がる。斜面の男たちが一斉に銃口を向けたのを知ってか知らずか、 「巡察隊の仕事は貴族の護送ではあるまい。『都』まで少々距離がある。任務を放棄していくつもりか?」 「そんなことは——」  おまえの知ったことじゃないと続く言葉を、スミスは呑みこんだ。この若いの——なんて眼をしてやがる。瞳に地獄が映ってるぞ。この美しさは天使のものか、それとも……。  彼は続けざまに眼をしばたたき、靴底で地面の硬さを確かめてから、 「——『都』からの命令だ」  と言った。 「命令の内容は?」  それこそ知ったことではない。だが、スミスは逆らえなかった。 「それは——」  沈黙が落ちた。  嗄れ声が聞こえた。 「入れ替わったか」  その瞬間、呪縛が解けた。或いは解かれたのか。 「殺っちまえ!」  叫んだ刹那、スミスの胸もとを灼熱の痛覚が通り抜けた。足が宙に浮いた。  二メートルの巨漢を串刺しにした剣を、Dは馬上で反転させるや、最初に遭遇した男の胸も貫き、軽々と持ち上げた。  男の背中に、左右から銃弾が叩きこまれたのは次の瞬間だった。  死の痙攣に狂いながら男は死亡し、スミスの身体も震えた。貫通弾を食らったのだ。他人を盾にする。しかも、二人、串刺しにした上で。非情どころか、無常無惨としか言いようのないDの戦法であった。  続けざまに貫通弾を食らったスミスがのけぞりながらDを見た。死相であった。無限の怨みのこもった眼差しがDを捉えた。 「逃げられや……しねえ。てめえも……ここで死ぬんだ」 「先に行け」  とDは答えた。 「おれは後から行く。行けたらな。待つがいい」 「………」 「おれの前に、おまえを待っている連中も多いだろう。達者でな」  Dの左手が、スミスの腰の炸裂弾にかかった。安全リングを引き抜いたとき、スミスの濁った眼に、凄まじい恐怖が湧き上がってきた。  射撃は熄《や》んでいた。岩山の男たちが、Dを狙える位置へ移動しはじめたのだ。 「やめろ……おれを……バラバラにするつもり……か」 「ほう、こやつ平原教の信者らしいぞ」  と左手が面白そうに言った。 「ならば、全身が十以上に離れては、成仏できん決まりだ。こら、あわてるわな」 「やめてくれ……首を斬っても……八つ裂きにしてもいい。だが……吹きとばすのは……やめてくれ」 「乗れ」  とDは命じた。少し離れた岩陰に隠れていた男爵が、ぴょんぴょん駆け寄ってきて、Dの背後に跳び乗った。  安全ピンが抜かれた。内蔵撃針《ハンマー》が信管《プライアー》を叩く。スミスの背後の死体が持つ炸裂弾にも、Dは同じ処置を施した。  頭上を弾丸がかすめた。横からだ。敵は移動を成し遂げたらしい。  Dの右手が動いた。  一刀をふる——というより、手裏剣を投擲する短い動きだけで、Dは左右の岩山へ串刺しの死体を叩きつけた。  男たちのど真ん中である。  彼らがその目的に気づいたとき、サイボーグ馬は疾走を開始した。  爆発には、わずかな差があった。降りそそぐ岩塊と土砂の下を、Dは一気に駆け抜けた。腰を抱いた男爵が、泣き叫び続ける。  岩山の道を抜けてからサイボーグ馬を止め、Dはふり向いた。磊々《らいらい》たる岩山が道を塞いだその奥から、地響きの余韻が伝わってきた。 「皆殺しか」  男爵が少し呆然とした口調でつぶやいた。 「おまえも殺伐としとるなあ。末世だ。——おりょ?」  Dは馬首を巡らせ、新たな岩山に近づいていった。理由はすぐにわかった。  地面と巨岩のひとつとの間に隙間がある。そこから、人影が這い出そうとしていた。  馬から下りて、Dはその前に立った。  最初のスミスだった。青白いだけの顔が不思議だった。Dの爪先の前で、動きが止まった。血まみれの身体は急に縮んだように見えた。 「頼む」  と彼はDの足下で呻いた。 「その貴族を……巡回裁判……所へ……罪を……償わせて……く……れ」 「何を言うか」  いつの間にかDの後ろに来ていた男爵が叫んだ。 「七千年も前のことだぞ。もう時効だ」 「犯罪に……時効など……ないぞ……」  こう言ったとき、スミスの口から鮮血が溢れた。信じられない量が地面を濡らすのを見て、男爵が喉を鳴らす。  スミスの顔が上がった。  Dと目が合った。 「頼むぞ……D」  はっきりした声だった。スミスは首を落として動かなくなった。 「報酬は裁判所か」  とDは尋ね、わかった、と言った。 「おい」  たじろぐ男爵へ、 「乗れ」  Dはサイボーグ馬を指さした。 「まさか、仲間を人間の裁判所などにかけるつもりではあるまいな」  Dの口もとが、一瞬ほころびた。仲間[#「仲間」に傍点]のひとことに苦笑したのである。 「仕事でな」 「何を言う。そいつはもうくたばっておった。報酬云々はおまえのひとりごとだ」 「見解の相違だな」  跳躍しようとした男爵の足首を白光が一閃した。  アキレス腱を断たれた男爵が地面をのたうち廻る。 「五分で元通りになる」  ひいひい泣き喚く「仲間」を憮然と見下ろし、Dはサイボーグ馬の方へ顎をしゃくった。  闇が落ちてから、サイボーグ馬の足取りは速度を増した。 「やはり、血筋は争えんな」  男爵がにやついた。Dの無視も無視して、 「昼よりも夜——あらゆる行動にこれが優先する。しかし、これだけは驚いたが、おまえ、昼も眠らず、いつ休むのだ? 並みのダンピールではこうはいくまい。やはり——」  ここで口を閉じ、うーむと感心する。 「うるさい奴だの」  と手綱を握った拳がささやいた。 「ザッパラに着くまで絞めておいたらどうじゃ?」 「何をぶつぶつつぶやいておる?」  男爵が聞き咎めて罵った。 「ひとりごとは狂気の徴候だぞ。わしと話せ。いや、話さなくてもよい。神祖とやらの話をしてやろう。いいか、まず身の丈は二メートル——ん?」  男爵が知覚したものはDも感じる。四個の眼が前方に闇を透かした。 「ほう、餓鬼じゃな」  路傍に腰を下ろした小さな影が見えてきた。年の頃、十歳くらいの少年である。夜目にも薄汚れたシャツとズボンをはいているが、顔立ちは凛々しさで形成されていた。  一〇メートルばかりまでに近づくと、少年はこちらに気づいて立ち上がり、小走りにやって来た。 「助けて下さい」  と下から見上げた。  サイボーグ馬は行き過ぎる。闇夜に救いを求める少年も、Dには無縁の存在なのだ。  少年は尾いてきた。夜目にも必死の面持ちであった。 「おい、どうした?」  男爵が声をかけた。心配したのではない。面白がっているのだ。 「『都』まで働きに行く途中、この辺で姉さんがいなくなっちゃったんです。捜すのを手伝って下さい」 「ほおほお、そりゃ大変じゃのお。おいこら、Dよ、助けてやらんか」  勿論、口にしている当人にも、そんなつもりはない。Dにもわかっているから、無言で歩み去ろうとする。 「おお、気の毒に。可哀相な餓鬼よ。このお兄ちゃんはな、他人の生き死にになど、とんと興味を持っとらんのよ。気の毒だが、おさらばだ」  ひひひと手をふる男爵を咎める者はいなかったが、いきなり女の悲鳴が聞こえたのには、男爵自身がひええと喚いた。  森からではない。  上だ。  Dの右手が跳ね上がった。月光に彩られたひとすじの光が虚空へと走った。  えっ? と男爵がふり仰いだ瞬間、三メートルばかり前方の地面へ、耳を覆いたくなるような打撃音とともに、ひとりの少女が落ちてきた。  わずかな沈黙の後—— 「お姉ちゃん!?」  愕然と少年が走り出す。 「何事——」  じゃ、と訊き終えることはできなかった。  Dの左手が頭上へと上がった。  月光に銀の描線が逆しまに迸る。  何ともいえぬ叫びが闇空を圧した。  苦鳴だ。二本目[#「二本目」に傍点]の白木の針も狙いをあやまたなかったのだ。  声だけがのたうち騒ぎ、しかし、遠ざかっていくのを男爵は聞いた。 「やったぞ。消えおった。二度と現われまいな」  男爵がけらけらと笑った。すぐに生真面目な表情になって、 「しかし、わしが眠っている間に、断りもなくおかしな化物どもが増えおった。けしからん。——あら?」  ぶつくさ言っている間に、Dが馬から下りたのだ。  音もなく二人に近づく。少年はすでに少女のもとに駆け寄っていた。  やはり辺境の子か、姉をゆすったりせず、声だけをかけている。 「姉ちゃん、こんなはずじゃなかったのに、どうしたんだよ。しっかりしろよ、起きてくれよお」  ぴくりとも動かぬ人形のような少女の左手を黒い手が持ち上げた。  少年の眼には、五指を広げた左手が、奇怪な生物に見えたかも知れない。  少年と同じ汚れたシャツと綿パンをはいた少女の、頭頂から首、胸、腰、脚、爪先まで撫でるように動かし、Dは、 「生きている」  と言った。少年へではない。自分への確認だ。それでも、少年は、えっと眼をかがやかせた。 「本当に? 随分高いところから——」 「外傷も内臓の破損もない。守られていたか」 「——何に?」  大きな瞳がDを見つめ、すぐに頭上を仰いだ。 「今夜ひと晩、眠らせておけ」  とDは言ってから、 「朝までひと休みだ」  と馬上の男爵に告げた。 「ほう、これは面白い。おまえ、硬派のように見えて、意外と軟弱者じゃの。餓鬼の泣き落としには弱いか」 「全くじゃ」  嗄れ声が同意した。 「いまのは貴族のこしらえた“人間《ひと》さらい”が自己進化したものだ」  とDは言った。 「何を抜かす。わしはあんな気色の悪いものを作った覚えはないぞ」  抗議する男爵へ、 「おまえの時代には、人間《ひと》さらいが流行していた。貴族という貴族がそのためのメカに腕をふるったと聞く。ああいう奴がいてもおかしくはあるまい」    3  一同は森の奥——少年と姉が野宿をしていた空地へ戻った。馬車とサイボーグ馬の残骸が横たわっていた。 “奴”が消えていった方を向いて、 「相手は貴族のメカだ。また来るかも知れん」  そして、少年の方を向き、 「おれを雇うか?」  と訊いた。  少年は一も二もなくうなずき、 「でも——お金が」  と眼を伏せた。 「幾らある?」 「おいらは五十ダレン、姉ちゃんは二ダラスくらい」  百ダレンで一ダラスになる。  少年は顔を上げた。夢中で叫んだ。 「でも、それを持っていかれたら、おいらたち——」 「また稼げ。死ぬよりはよかろう」 「………」 「血も涙もない奴だの」  男爵が軽蔑し切ったように鼻を鳴らした。 「全くじゃ」  と言われて、また辺りを見廻す。意外と鈍そうだ。  結局、少年は同意した。金のことでもめるよりも、Dの寝袋にくるまっている姉が気になるのだ。 「おれはDだ」  雇い主に名乗った。少年も笑顔になって、 「ピロンです。姉ちゃんはレダ」  この様子を陰気な眼で眺めていた男爵が、いかにもわざとらしく口をはさんできた。 「微笑ましい和解じゃのお。しかし、Dよ、おまえの言っていた“人間《ひと》さらい”の流行というのは本当か? わしゃ何も知らんかったぞ」 「当時、何処にいた?」 「何処もそこもあるか。一年三百六十五日城を出ず、研究に没頭しておったぞ。なんと当時は丸三年、不眠不休の記録を作っておる。また、城での引きこもり期間も、最長三百年に及ぶのだ。はっはっはあ」  十秒ほど自慢たらたら笑ってからDの無関心に気づき、 「しかし、わしの目的は崇高なものであったぞ。他の貴族どもが、あれと同じことをしていたとは到底考えられん。奴らの目的は何だ?」 「お遊びよ」 「なぜ、急に声を変えるのだ? 声帯模写が特技か、おまえは?」 「おまえの仲間は、さらってきた人間たちを様々な生物に作り変えたのじゃ。人間と獅子、人間と火龍、人間と蛇——おまえたちの腐り果てた頭の中の妄想は、片っ端から実現された。それで足りなければ、おまえたちは、単なる暇つぶしに、男も女も老人も子供も生体解剖の台に乗せたのだ」 「下らんことを」  と男爵は吐き捨てた。それから忌々しげに、 「人間ほど興味深い研究材料は世に存在せぬのだぞ。それをキメラの原料とバラバラごっこの人形代わりか。なんという愚か者だ。あいつ[#「あいつ」に傍点]の言っておったとおりだわい」 「あいつ[#「あいつ」に傍点]か」  Dが静かに小さな影を見た。 「そうとも。あいつ[#「あいつ」に傍点]だ。貴族の世も長くはないと抜かしおった。全くそのとおりだわい。貴族など失くなってしまえ」 「本気でそう思うか?」 「コロコロ声を変えるな。年寄りを驚かすのが趣味か、貴様は?」 「本気か?」  静かな光を放つDの双眸であった。男爵は急にどぎまぎして、 「そうとも。貴族など、この世にわしひとりでたくさんじゃ。余計な奴は、みな灰になってしまえ。今度、貴族の墓を見つけたら、片っ端から暴いてやるぞ。ひひひ、陽光の洗礼を受けるがいい」  罵る相手は自分の同類である。焚火の炎がつける影がハゲの丸顔を不気味この上なく彩った。  少年——ピロンが泣きそうな顔で、Dににじり寄ってきた。 「あいつ、病んどるな」  嗄れ声がささやいた。 「何処から来た?」  Dが訊いた。ピロンは雇い主である。多少の会話は必要だろう。 「キビアジの村からです。四カ月前、父と母が事故で死んじゃって、お姉ちゃんと『都』へ働きに行くことにしたんです」 「向うに知り合いはいるのか?」 「母ちゃんの年の離れた姉がいるって聞きました」 「それは気の毒にのお」  ひひ、ひひと笑っていた男爵が、嫌みったらしい笑顔を浮かべてやって来た。 「どうだ、おまえ、わしの実験体にならんか? 姉には一生の生活を保証するぞ」  鼻先を、びゅっとかすめた。 「ひええ」  跳び上がった男爵は鼻の頭を押さえ、指の間から滲んだ血は、炎に紅く息づいた。  ちんと刀身を収めるDを、少年はきょとんと見つめた。男爵と仲間だと思っていたらしい。 「断っておくが、あの男は貴族じゃ」  と、嗄れ声が言った。少年は眼を剥いて男爵とDを見た。この二人プラス嗄れ声だ。訳がわからなくなっても無理はない。 「おれはハンターだ。あの貴族をザッパラへ連れていく。そこから『都』へは定期飛行体が出ているはずだ。それに乗れ」  少年はうなずいてから、 「あの貴族は、悪人なんだね?」 「人間から見ればな」 「貴族から見ると違うの?」 「さて、な」 「貴族の中に悪人はいないの?」 「いるだろう」 「じゃ、いい人は?」 「それも——いるだろう」  少年の表情が変わった。Dの声に奇妙な感じが加わったのである。喜んでいるような。  はっはっはあ、と少し離れたところから、男爵の嘲笑が響いてきた。 「何を非現実的なごたくを抜かしておる。貴族にいいも悪いもあるか。貴族は貴族——みいんな同じ穴のムジナじゃい」  夜明けと同時に、一同は出発した。夜の間にDが木の枝と幹とを使って橇《そり》を作り上げており、ピロンとレダはそれに乗った。 「器用な奴だな」  と男爵が毒づいた。  ピロンはしばらくの間、呆然と男爵を見つめた。陽の光の下を歩く貴族が信じられないのだ。 「何を見ておる? 貴族ははじめてか」 「うん」 「ふむ、そうじゃろうな」  面白くもなさそうに納得した。 「陽の下を歩くのに貴族なの?」 「歩いて悪いか? わしは特別だ。貴族の中でも選び抜かれた存在じゃ。その辺の阿呆どもと一緒にするな」 「誰が選んだの?」  男爵は沈黙した。 「そのままでいろ」  Dが鋭く命じた。その左手が空中に持ち上がるのを男爵とピロンは見た。 「昨夜の奴か?」  男爵が眼を剥き、ピロンがひいと身を固くする。  いつの間にか左右は平原である。  Dはふり向いた。森はもう見えない。 「地面に横になれ」  とDは言った。 「何事じゃ?」  男爵の眼はDの左手を追い、その丸顔が急に青ざめた。  いや、同時に黒く翳った。青天の陽光が突如、暗黒に変わったのだ。  雲はない。正確にいうと闇でもない。道も平原も彼方の岩山や森もはっきりと識別できる。  ただ一天にわかにかき曇ったとしか言えぬ。  そして、全員がその理由を知っていた。  彼方の平原と虚空を、ひとすじの青い光がつないだ。光は地表で波のように波紋を広げた。  間髪容《い》れず、黒いすじがそれは生々しく天と地を結んだ。  一瞬のうちにそれは天へ引き戻された。後に巨大なすり鉢状の穴が残った。 「“吸雷獣”だ。ここから出るな」  一同の頭から、青い布が降ってきた。  サイボーグ馬の鞍に積んであった毛布である。耐火耐水耐寒耐熱と、ほぼ完璧な品は、貴族の技術のおびただしい応用例のひとつだが、耐電機能も備えている。  辺境での旅がぐんと増えるのは、いまから八千年ばかり前からだが、それは、この毛布の開発が契機になっているのだった。 「おや、おまえは入れんな」  男爵が毛布から顔を出して、馬の陰に横たわるDを見た。その顔を青い光が染めた。  今度は奇怪なすじがのびず、数キロ離れた地点に、またも電光が閃いた。 “吸雷獣”とは空に潜む何ものかの意だ。誰もその実体を眼にしたことはなく、しかし、その凶暴な食事の仕方だけはわかっている。  すなわち、暗天の広がり、電撃の照射、しかる後の巨大な管による地上生物の吸引である。  見よ、地平の彼方から、いまやDたちまで一キロの地点に達した巨大な管の長さを、その太さを。  赤黒い肉の管はなんと一〇キロも高みの暗天に吸いこまれ、地上から電撃で死滅したものを吸い上げるその直径は、五〇メートルにも及ぶ。  このスケールでは、耐電毛布など無用の長物だ。それをDが使用するのは、“吸雷獣”の奇怪な性癖のためだ。 「生身で奴の電撃を受けるつもりか? 貴族とはいえ、あれには敵わん。死体になったら吸い上げられるぞ」  吸雷獣はまず電撃を浴びせて地上の生物を根絶やしにし、しかる後、巨大な管で吸引する。その際、息のある生物は放置されるのだ。大地すらえぐる猛烈な吸引の中で、いかように死者乃至生者のみを選ぶのか。  その電撃は五千万ボルトに及ぶ。毛布は保つのか、それよりも、ただひとり外に出たDは?  空気が青く変わった。 「来るぞ」  Dの叱咤に、男爵がひええと毛布をひっ被る。  その毛布もDも平原も青く彩られた。 「ひえええ、痺れるぞ」  と毛布の中で男爵が呻いた。 「だらしのない貴族だなあ」  とピロンが罵った。普通、Dがついていたとしても、貴族に脅えるのが普通だが、この少年は平気どころか完全に舐めている。性格もあるだろうが、やはり男爵の腑抜けぶりのせいだろう。 「何を抜かすかこの餓鬼め。外のDが吸い取られたら、おまえと姉の血を吸い取ってくれる」 「べー。やれるもンならやってみな。その前に、おまえの心臓に白木の杭を打ちこんでやらあ」 「お、おまえと抜かしたな」 「おまえ、おめえ、てめえ、屑」 「こ、このお」  飛びかかろうとした瞬間、 「直撃だ」  毛布の外でDの声が走った。 「おおっ!?」  毛布の内側も青く染まった。 「ぎえええええ〜っ!?」  男爵はのたうち廻った。通過してきた電磁波が、身につけた金属類を打ったのである。 「助けてくれ」  とピロンに抱きつこうとして、 「来るな」  と幼い足で顔の真ん中を蹴とばされてしまった。痺れはピロンをも襲った。少年のみか、姉の身体もまた激しく痙攣する。  青い霧が流れた。いや、それは煙であった。電撃の猛打に、毛布が燃えはじめたのだ。 「大変だ、丸焼きになるぞ! 助けてくれえ!」  電磁波が体内を駆け巡り、火に焼かれ、煙で窒息する。想像を越えた三重苦に苦悶するあまり、男爵はついに毛布を撥ねのけた。 「ありゃ?」  いつの間にか、世界は光を取り戻していた。平原のあちこちに直径五〇メートルもある巨大な穴が空いているものの、“吸雷獣”は去ったらしかった。 「そうだ、Dは?」  男爵は横たわったままのサイボーグ馬の横を上から覗きこんだ。  息を呑む気配に、ピロンが咳をこらえて、どうしたの? と覗きこんだ。  Dの姿は跡形もなかった。 [#改ページ] 第六章 誰もいない    1  平原のただ中で、男爵とピロンは途方に暮れた。  二人して周囲を捜索したものの、Dの姿はなかった。間違いない。“吸雷獣”の管に吸いこまれてしまったのだ。 「すると、彼奴《きゃつ》は死んでしまったのか」  呆然とつぶやく男爵のそばで、ピロンが手綱を取ってサイボーグ馬を起こした。 「——何をするつもりじゃ?」  訝しむ男爵へ、ピロンは平然と、 「死んじゃった人をくよくよ想い返しても、仕様がないや。さ、約束どおり僕らをザッパラへ連れていってよ」 「莫迦者。もうおまえらとは縁切りじゃ」  と男爵は悪態をついた。ついでににんまりと相好を崩した。 「わしは自由だ。自由になった。もう誰にも邪魔はさせん。たとえ一万年経とうとも、わしにはやらねばならぬことがあるのだ。そうだ、よし、わしの仕事に協力するというのなら、おまえたちも連れていってやろう」 「真っ平さ」 「なにィ!?」 「貴族なんかと一緒にうろちょろできるかい。おまけに陽の下も歩けるなんて気色が悪ィ。あーばよっ!」  別人のような威勢のいい口調でまくしたてるや、ジャンプ一閃——サイボーグ馬にまたがった姿も別人のように機敏であった。 「あ、待て」  男爵が手をのばすより早く、ひと蹴り入れるや、姉の乗った橇を結んだロープもぴいんと張って、サイボーグ馬は猛烈な速さで地を蹴りはじめた。 「待て。その鞄だけでも置いていけ!」  みるみる小さくなっていくその姿を、男爵は二、三歩追って立ち止まり、地団駄を踏みはじめた。 「待て、戻れ、この小僧。わしは貴族だぞ。人間が貴族を置いていくつもりか。こらあ。一生呪ってやる。おまえも姉も、今度見つけたら、必ずその下賎の血を吸い尽くしてやるぞ」  叫び終えたとき、馬と橇とは、街道の彼方へ豆つぶほどの大きさまで遠くなっていた。 「糞、糞、糞、糞お」  ようやく地団駄を踏み終え、男爵は道の真ん中に腰を下ろして、頭上をふり仰いだ。  太陽は燦々と彼ひとりに陽光を送りつづけている。 「莫迦め。光ることしか知らぬのか」  悪態をついてから、男爵は頬に手を当て、何やら考えはじめた。やれやれ、とつぶやいたのは、数秒後であった。 「仕方がない。行くか」  よいこらしょと立ち上がり、ぶらぶらとピロンの走り去った方角へと歩き出した。  ———— 「ありゃ?」  と眼を細めたのは、五キロほど進んでからである。  さっきから見えていた小さな人影と物体が、見覚えのある少年と橇に化けたのだ。  向うも気がついたようだが、逃げる風もなく路傍にへたりこんだままだ。 「あの餓鬼め。吸い殺してくれる」  と宣言したものの、ピロンと橇のかたわらに辿り着いたときは、全身汗びっしょり、息も絶え絶えであった。  その胸の中へ、 「小父ちゃあん」  とピロンが抱きついてきたから、男爵は眼を白黒させた。突きとばそうとしても、手にも足にもそんな力は残っていない。目撃者がいれば、再会を喜ぶ老人と孫に見えたかも知れない。 「なんだ、おまえ、この豹変ぶりは?」  男爵は息も絶え絶えに訊いた。 「——馬はどうした、馬は?」 「ここまで来たら、眼の前を大猫が横切りやがってさ。びっくりして、おれをふり落として逃げちゃった。夢中で橇のロープだけは外したんだけどさ」 「自業自得だ。莫迦め」 「小父ちゃん、助けてよお」 「ふざけるな、この裏切り者め。貴様など、ここで野垂れ死んでしまえ。どうなろうと、わしの知ったことか」 「小父ちゃ〜〜ん」 「急に可愛くするな、この卑怯者め」  憤然とそっくり返ると、その耳もとで、 「そんなこと言っちゃ、嫌《や》」  甘くささやいたのは、明らかに女の声だ。  男爵はふり向き、ぎゃっと叫んだ。 「おま、おまえは!?」 「姉のレダです」  橇から起き上がった娘は、白い腕を男爵の首に巻きつけて、身体を寄せてきた。  熱く柔らかい頬に頬ずりされ、男爵は仰天した。 「な、何をする!? 貴様は色情狂か!?」 「やだ。頼りにしてますって挨拶でしょ」  レダは微笑した。ピロンと五歳は離れていまい。十四、五と見えるくせに、その桜色の頬、眼差し、やや開きがちの唇の、なんと艶《あで》やかなことか。ロリコン気味の親父なら一発で鼻の下を長くするだろう。  しかし、男爵は身をひねって、白い手を跳ねとばした。 「やン」 「何がやン、だ。えーい、そんな眼で見るな。小娘のくせに、何だ、その色気は。貴様と同い歳くらいの連中を、わしは何人も実験に使った。どいつも泣き叫んでおったぞ。それを何だ。まるで怖れておらんな。貴様ら二人——必ずまた実験に使ってやる」 「あら、一緒にいなきゃ使えないわよ。ねえ、ピロン?」  レダが髪の毛を整えながら男爵を見つめた。流し目だ。 「そうさ、さ、行こ」  ピロンが腕をからめてきた。それをふりほどき、 「やかましいわ。この変節姉弟《きょうだい》め。大体、貴様、なぜ眼を醒ました?」 「“吸雷獣”に襲撃されたんですって? あの電撃のせいよ」 「ふん、感電死すればよかったのだ」 「そんな冷たいこと言っちゃ、やン」 「とにかく、わしは行くぞ。こんな陽の照るところにいたら、干上がってしまう」  男爵は断固として宣言した。 「貴族って不死身じゃないんですか?」  レダはなおも笑みを絶やさずに訊く。男爵はうんざりと、 「だから、陽の光の下を歩いておる。その分、貴族としての本来のパワーはダウンを余儀なくされるのだ。ひい」 「でも、死なないんでしょ?」 「一応はな。しかし、こんな状態が続けば死んだ方がましだ。自死する奴の気持ちもわかるわい」 「へえ、貴族でも首吊るんですか?」 「首など吊らん。斬るのだ! ズバ」  と手刀を横に動かすのを見て、 「あ、やっぱりそれで?」  貴族を死滅させる方法は人口に膾炙《かいしゃ》しているが、試した者はそうそういない。空想の域にとどまるのだ。  首を斬り落とす、心臓に楔を打ちこむ、流れ水に落とす、火で焼く——このあたりは定番だが、死ぬまで甘いものを食べさせる、棺の周りで丸三日間、悪態を喚き散らすあたりになると、子供向けの出鱈目だ。 「うるさい。余計な知識を持つな。人間どもは貴族にひれ伏しておればよい。いつまでも姉弟二人でここにいろ」  少しは体力が回復したか、取り戻した皮鞄を手に、またのこのこと歩き出す。その動きがぴたりと止まった。ふり向いた顔は、隠しようもない邪悪な笑いを浮かべていた。 「考えてみれば、こんな人も通らぬ街道に、幼い子供二人というのは気の毒だ。よし、尾いてこい。人家へ送り届けてやろう」 「本当に!?」  レダが男爵の首に抱きつき、ぶちゅぶちゅとキスの雨を降らせはじめた。  そのときの男爵の胸中を文字に表わせば、まあ、こういう具合になるだろう。  ——お、なかなかいい目に遇えるの。しかし、おまえらは、こんなことよりずっと役に立つ。貴族といえど腹は空くし、喉は渇く。そのとき、二人分の血は大事な生命の綱だわい。  かくして、それぞれの思惑を胸に三人は歩きはじめた。  しばらくして—— 「何を見ている?」  と男爵は訊いた。全身に突き刺さる二人の視線を感じたのである。 「随分、いい服着てるわねえ」  レダが屈託もなく口にした。マントの下の服は、黄金の糸《モール》や縁飾りをふんだんに使い、あちこちに埋めこんだ宝石が、まばゆいかがやきを放っている。ブレスレットやペンダントは言うまでもない。中身はともかく衣裳の方は億ダラスを越えるだろう。 「子供がおかしな興味を持つな。貴族ならこれくらいの服装《みなり》は当り前だ」 「でも、小父さんは特別でしょ。とってもチャーミングだし、こんなに色々身につけてる男《ひと》、知らなあい」 「ふむ、餓鬼のくせに人を見る眼はあるな」  男爵は他愛なくにやにやして、 「そのとおりだ。このマキューラ男爵さまは、その辺の田舎貴族とちょっと違うぞ。あいつらが身につけている宝石や黄金は、所詮、人工だが、わしのはすべて自然石だ。大自然の要素が数万年をかけ、奇跡的な地質変動と生成の果てに産み出したものよ。いま身につけている分だけで、ざっと五千億ダラスはする」 「お金のある男の人って素敵」 「この小娘、うまいことを言いよる」  ついに男爵は笑い出した。それを見つめる姉弟の眼が、鉄のように冷たいことに気づかぬまま。    2  その晩は、野宿になった。  平原のど真ん中だが、姉と弟は何処からともなく枯枝を集めてきた。  炎を見ながら、 「獣が来ないかなあ」  とピロンが不安そうにつぶやいた。レダは、冷たい眼で男爵を見つめている。頼りになるかどうか値踏みをしているのではない。視線の先には、炎のきらめきを映す男爵の宝石があった。  それが急に相好を崩すや、 「大丈夫よ、ピロン。男爵さまがいてくれるんだもの」  甘い声で言った。 「ばーかもン」  即座に男爵が応じた。 「わしがなぜ、おまえの弟を助けにゃならん? おかしな奴に食われてくれれば、足手まといが減って旅のはか[#「はか」に傍点]がいく。それに、こいつが食われた後で、食った奴を始末すれば、おまえの食料は倍に増えるぞ」 「そんなことおっしゃらないで」  レダがしなだれかかってきた。たちまち鼻の下をのばしたから、貴族もだらしがない。 「まかしておけ。このマキューラ男爵がいる限り、おまえたちに指一本触れさせん」  どんと胸を叩いた。  それに応えるように、右方の闇が唸った。 「え?」  男爵がそっち[#「そっち」に傍点]を向いた。全身がみるみる総毛立っていく。大言壮語はかけらもなかった。 「ちと——用を足してくる」  立ち上がろうとして、少し躊躇し、男爵は地面に両手をついた。そのまま四つん這いで、のこのこ歩き出す。 「姉ちゃん、こいつ、トンズラこくつもりだぜ」  ピロンの指摘に、レダは、 「あの唸り声は“歩行者”よ。息を止めて、何も考えずに」  二人は石のようにその場に硬直した。  焚火から五〇メートルばかりで、男爵は立ち止まった。  耳元で、この世ならぬ女の美声が、 「待って下さい」  健気にささやいたのだ。  レダか? と思ったが、すぐに違うとわかった。  いつの間に、などという考えは、声を聞いた瞬間に吹っ飛んでいる。  貴族の眼は、闇と、その真ん中に停止した山のような物体を映し出していた。  眼も鼻も口もない。直径二メートルほどの球体だ。  透明の液体の塊だ、と貴族の眼は見抜いた。  その瞬間、塊はごろりと転がり、男爵を呑みこんだ。  ひとすじの光が水塊に当たった。  凄まじい水蒸気が噴き上がって月と星々を隠した。  どっと、濡れ鼠の男爵が地べたへ落っこちたのは、五秒ほど後であった。  濛々たる水蒸気以外、水塊は形もない。  げほげほやっている男爵に、二つの影が駆け寄った。 「何が指一本触れさせねーだよ、だらしのない」  吐き捨てたのは無論、ピロンで、熱線《ヒート》ビーム発射装置を仕組んだ指輪を切って、男爵さまと飛んできたのはレダである。 「溶ける、溶かされる」  うわごとみたいに繰り返す男爵の手も顔も蒸気に包まれ、皮膚は水を吸った紙束みたいにボロボロだ。強烈な酸を浴びたのは明らかであった。 「服も貴金属も溶けちまった。もう仕様がねえな。姉ちゃん、放っといて行こうや」 「何てこと言うの、おまえは!?」  レダはたしなめながら、片目をつぶってみせた。 「傷ついた男爵さまを放ってはおけないわ。心をこめて手当てします」 「阿呆かよ、姉ちゃん」  とピロンは小さく罵った。 「こいつ、貴族だぜ。どんな眼に遇っても、心臓に楔を打ちこまれない限り、生き返ってくるんだ。手当てなんか無駄だよ」 「阿呆はおまえよ」  とレダは、皮膚の剥がれた男爵の頬をやさしく撫でながらささやいた。 「だからこそ、放っておいちゃあ危《やば》いんじゃないの。どっかで会ったら復讐されるわよ。こういうタイプは、おべっかと頬ずりがいちばん効くのよ」 「いいのかよ、んなに簡単に人間の理屈を押しつけて? こいつ、ハゲでチビだけど、貴族だぜ」 「姿形はおんなじよ。頭の中味もね。何とかなるわよ」 「けっ、好きにしなよ」  だが、姉弟の意図に反して、男爵は快方に向かわなかった。  夜が更けていくにつれて、ズタボロの皮膚は、嫌な臭いを放ちはじめた。腐臭である。 「うーむ、うーむ」  だった呻きも、 「ぐげぐげぐげ」  と明らかに悪化している。  二人は顔を見合わせた。 「やっぱり、あんたの言うとおりね」  レダの眼は、危険な光を放っていた。 「貴族が元気になるはずの夜になってもこれじゃね。やるだけやったわ。朝になったら置いていきましょう」  この辺は女である。すると、男が異議を唱えた。 「でも、少し可哀相だぜ」 「何がよ?」 「本当《ほんと》に苦しんでるしさ。こいつ、おかしな貴族だよ。人間に近いんだ」 「だったらなおさら気味悪いじゃないの? 早いところ、戴くもの戴いて逃げてしまった方が得よ。滅びてくれるなら、しめたものよ」 「ぐうううう」  男爵の口から白いものが溢れて頬や首を伝わった。 「もう駄目よ、こいつ」  とレダが弟の肩をゆすって立ち上がった。  そばに積んである薪用の枯枝から、比較的真っすぐな一本を選び出し、ピロンに手渡した。  炎がその頬を染めている。ひどく無表情に見えた。  少年は枯枝の一方の先を見つめた。鋭く尖っている。 「早く」  とレダがささやいた。  少年はうなずいた。決意が顔をこわばらせている。炎が眼の中に揺れていた。  中天に昇った陽が、街道を行く姉弟を白く照らしていた。  ピロンが足を止めた。疲れ果てたのである。  早朝に歩き出してからいままで黙々と歩いていた姉が、これも停止して、怒りに燃えた眼で弟をにらんだ。 「ほんとに莫迦ね、あんたって。もうグロッキーでしょ。食糧なんかないのよ、誰かが通るとも思えないし——どうする気よ?」 「仕方ないだろ、ひとり多いんだ」  言うなり、へたりこんだ。背中へ衝撃が伝わり、背負われていた無惨な人影が、力なく呻いた。  男爵はまだ生きている。 「おかしな侠気《おとこぎ》なんか出しちゃって。結局は予定の半分も行かないうちに、もうダウン。さ、ここで決着《けり》をつけちゃいなさいな」  まだ手にしていた枯枝を突き出す。  物欲しげにそれを見たピロンの眼差しは、すぐに厳しい拒否に変わった。 「やだ」 「どうしてよ?」 「とにかく、やだ。苦しんでる相手を手にかけられない」 「貴族よ」 「おれたちと同じ形をしてる。これじゃあ無理だよ」  レダは弟をしばらくにらみつけてから、うなずいた。枯枝をひったくって、 「いいわ、あたしがやる」  と、ふりかぶった。 「よせって!」  ピロンが姉の手にしがみついた。 「なに格好つけてんのよ」  抗いながら、レダが喚いた。 「あたしたちが、こんな風になったのも、みいんな貴族のせいなのよ。こいつらを滅ぼしてお宝を奪ったって、文句を言われる筋合いはないんだ!」 「だからって、苦しんでるものを刺したら、おれたちも貴族と同じになっちゃうよ! かっぱらいだけにしよ! ね」 「治った後で追いかけてきたらどうすんのよ? あたしたちなんか一発で八つ裂きよ。もと[#「もと」に傍点]は断っとかなきゃ」 「とにかく、よせってば」 「う、る、さ、い」 「うるさい」  なおも揉み合い、次の瞬間、二人は凍りついた。いま——二度目のうるさいは?  二組の視線が絡み合って、足下近くへ落ちた。  焼け爛れた顔が、不機嫌そうにこちらを見つめていた。 「お、お、起きてらしたの?」  レダが実にバツが悪そうに微笑してみせた。 「ああ、昨夜から一睡もしとらん」 「……あの、あたしたち……冗談を……」  弁解しながら、レダは右手のレーザー・リングの照準を、何気に男爵へ向けている。 「つまらん小道具は、獣相手にせい」  男爵はうんざりしたように片手をふった。 「それより、おまえたち何も見えんのか?」 「え?」  声を揃えて、二人は周囲を見廻した。 「そっちの道の端に……建物が見えた……町だろう。そこまで頑張れ。あと、五キロだな」  二人はまた眼を凝らしたが、建物どころか人影ひとつ見ることはできなかった。  ピロンが不審そうに、 「あんた、ペテンしてたのかよ?」  と訊いた。途端に、 「ぐげぐげぐげ」  手足を蛙みたいにばたつかせ出したので、 「ふざけんな、このチビハゲ貴族——てめえで歩け」  思い切り蹴とばしたのである。 「糞餓鬼めが」  ぶつくさ言いながら、男爵は起き上がった。  その前に素早くレダがしゃがみこんで、背中を向け、 「男爵さま。弟の代わりにあたしが」 「うるさいこの二枚舌娘。おまえの言うことなど、二度と信用せんぞ。いつか必ずその血を吸ってくれる」 「悲しいわ」  レダは涙ぐんだ。大したものである。天性の演技者だ。 「ほら、行くよ」  ピロンが苦々しい表情で、前方へ顎をしゃくった。 「やい、ハゲ、町の話が嘘だったら、ぶすりといくからな」    3  町はあった。  姉と弟の表情には喜びが溢れ、すぐに疑惑に変わった。  町の端まで辿り着いて、それはすぐ絶望に化けた。  遠くで雷鳴が聞こえた。雨が近い。それが姉弟の胸をさらに重くした。 「おかしいな」  とピロンが呻いた。  通りに人っ子ひとりいないのだ。どんな町にも暇な老人がいて、通りに面した歩道に椅子を並べているものだが、それすらも見えない。それなのに、酒場からはけたたましい演奏が聞こえてくる。  茫然と立ち尽くす三人の視界を、白い糸が斜めに横切った。 「踏んだり蹴ったりね——雨よ」  とレダが投げやりに言った。  通りの右側に二階建てのホテルがあった。  そこへとびこんだ三人の後を、雨の音が追ってきた。 「おかしいな」  とピロンが首をひねった。フロント脇のロビーである。隣のラウンジのテーブルには、コーヒー・カップや食べかけらしい料理の皿が並び、魅惑的な匂いが漂ってくる。ただ——人がいない。  男爵がのこのことテーブルのひとつに近づき、灰皿の上の葉巻を手に取った。  咥えてから、ふうと紫煙を吐き出し、 「安物だな」 「うるせえな」  とピロンが歯を剥いた。歩けるくせに背負われてきたことに腹を立てているのだ。 「でも、その葉巻の燃え具合からすると、十分くらい前には、ここに人がいたのよ」  レダの指摘に、男爵がうなずいて、ステーキを指でつついた。 「まだ温かい。五、六分てとこだな。おや、あっちには煙草が落ちて燃えとるぞ、いかんな。火の用心火の用心」  とことこと駆けていって、踏み消した。男爵というより、派手な格好をしたホテルのボーイ長のようだ。  煙草は五カ所に落ちていた。 「ナイフやフォークも落ちてる。何が起きたんだい、姉ちゃん?」 「あたしなんかより、男爵さまあ。あら、いないわ」 「逃げたか、チビハゲめ」  ピロンが見廻したとき、ラウンジの奥のドアが開いて、男爵が現われた。 「何してやがった?」 「火の用心——厨房では料理が作りかけだった。火事まであと一歩じゃぞ」 「さすがだわ、男爵さま。あたしたちなんかより、ずっと気がおつきになるのね」 「当然じゃ」  男爵が胸を張る——というより、そっくり返った。  ドアが吹っとんだのは、次の瞬間だった。  轟音と衝撃波は後からやって来た。  間一髪で床に伏せ、倒れたテーブルと椅子の直撃を免れた姉弟の真ん前に、ずたぼろの丸顔が現われる。 「てめえ、何処が火の……」  怒りのあまり声も出ないピロンの頭を、男爵はナデナデした。 「何のへぼまじないだよ?」 「単なるご機嫌取りじゃ」  と男爵は答えて、 「ガス・レンジを消し忘れたようじゃな。まあいい。これで安心じゃ。泊まる部屋でも決めよう」 「火が出てるよ。消せないぜ」 「やむを得ん。雨にまかせよう」 「この安直貴族——何処へ泊まるんだよ?」 「屋根があればよかろう」  男爵は立ち上がって、そそくさと玄関へ向かった。  三人が次に入りこんだのは、治安官のオフィスだった。  ここにも人っ子ひとりいない。  室内を歩き廻って、 「灰皿の吸い殻は少し前のものだ。治安官は見廻りにでも出たのだろう。しかし、留置場に鍵がかかっているのを見ても、誰かいたようだな。要するに、こういうことだ。我々がやって来る五、六分前まで、この町は正常に動いていた。ところが、何らかの理由で町の人間全員が消えてしまった」 「そんな——誰かいるかも知れませんわ。あたし、呼んでみます」 「やめておけ。みなを消した奴に嗅ぎつけられたらどうする?」 「——でも」 「相手の正体がわかるまで待て」 「どうやったら、わかるんです?」 「わからん」  無責任な返事に、レダの怒りが爆発した。 「行ってきます!」  叫んで身を翻すのを、男爵が一歩出て、その後ろ襟を掴んだ。 「雨だ。風邪をひくぞ。それより、そうだな、その辺の武器でも出して、ガードの準備をしろ。わしは、食糧でも捜してくる」  今度は、レダが後ろ襟を掴む番だった。 「逃がしませんわよ、男爵さま。あたしたち、いつも一緒ですわ」 「放せ、放せ、放さんか。おまえら、わしの気持ちがわからんのか?」 「全然」  ピロンが首をふると、椅子を取り上げ、ガラス張りの武器ケースへ叩きつけた。  飛び散るガラスを避けて、内側の火薬銃を取り出す。長銃は手に余るので、拳銃を選んだ。それでも十歳の少年が握ると不釣り合いだ。 「莫迦者が、でかい音をたてよって!」  男爵が喚いた。 「あいつが来るぞ! この糞餓鬼めが!」  姉と弟は顔を見合わせ、同時に男爵に叫んだ。 「あいつ[#「あいつ」に傍点]って——知ってんだ!」 「うるさい!」  男爵は声をひそめて喚いた。レダの手を弾きとばして、ドアに走り寄る。外を覗く顔は凄愴《せいそう》であった。姉弟もその雰囲気に打たれて身じろぎもしない。  そのまま一分が過ぎた。  覗きっ放しの男爵がふり向いた。 「よし、とりあえず大丈夫だ。この隙に、おまえたちは食糧を捜してこい。雑貨屋は、あそこだ」 「あんたも行くんだろ」 「そうはいかん」  言うなり男爵はドアに体当たりをかました。  大きくスィングした後に生じる隙間へ丸まっちい身体が呑みこまれた。 「待て」  と拳銃を構えるピロンの腕にレダがしがみついた。 「音を出しちゃ駄目よ! あれは本当よ」 「でも、あのチビハゲ」 「放っときなさい。奴だって、あたしたちの血が要るはずよ。じきに戻ってくるわ。それより、あいつの言ったとおり、食糧を捜しにいこう。お腹が空いちゃったわ」  幸い、雑貨屋の商品は健在であった。缶詰や即席食品、飲料水等を持てるだけ持って、二人は治安官事務所へ戻った。  夜になって雨は勢いを増し、風も加わった。男爵は、無論、戻ってこない。  電灯は消し、事務所にあった蝋燭を出したのは、得体の知れぬものを怖れたためである。あの男爵の怯え方が演技とはどうしても思えなかった。  突然、世界は白くかがやいた。  ぎょっとする二人の耳を、轟きがゆすった。  雷鳴だ。 「近くに落ちたのかなあ?」 「何だか知らないけど、そっち[#「そっち」に傍点]へ行ってくれるといいのにね」  そっちとは、男爵の口にした何ものかのことだろう。ピロンも無意識にうなずいてしまった。  さらに、雨と風の時間が過ぎた。  もう真夜中に近い。容易に寝つけなかった二人も、次第に睡魔の侵略に脳を蝕まれつつあった。  ふとピロンは眼を醒ました。同時に姉もこちらを見つめた。 「姉ちゃん、チビハゲが夢に出てきたよ!」 「あたしの方もよ。それで——」 「早く逃げろって」  声を合わせて、二人は互いの顔を見つめた。  レダが頭をふりながら立ち上がって、ドアの方へ向かった。  不思議と通りは明るい。アーケード付きの歩道には、照明が点いているのだ。人間を連れ去った何かも、電力には興味がなかったらしい。  ドアについたガラス窓は高いので、レダは窓に寄って外を覗きこんだ。  正面を確認してから、左へ移って通りの右奥を眺め、右へ移動し、左奥へ眼をやる。 「あ」  声はむしろ、ぼんやりとしていた。  ピロンが異変に気づいたのは二秒ほどしてからである。姉の隣に駆け寄り、同じ方角を見た。  すぐにわかった。  通りが妙に短く感じられる。  と、一番奥に点っていた電灯が、ふっと消えた。切れたのではない。暗黒に呑みこまれたのである。 「姉ちゃん——闇がこっちへ来るよ!」  愕然と叫ぶ弟へ、何処からともなく、黒い影が天地を呑みこみつつ近づいてきた。  何もかも呑み尽くしながら。 「逃げるわよ、ピロン」  とレダが身を震わせて叫んだ。 「みんな、あいつ[#「あいつ」に傍点]に呑まれたのよ」 「あいつ[#「あいつ」に傍点]って——何だい?」 「わからない。早く逃げよう」  ピロンが拳銃を掴んでから、二人は外へ飛び出した。  雨と風が全身を打ったが、気にもならなかった。  そっちを向いた。  闇はもう五メートルまで迫っている!  声もかけずに同時に走り出し、しかし、二歩と行かずにピロンがつまずいて倒れた。 「ピロン!?」 「姉ちゃん、逃げて!」  絶望の叫びが白くかがやいた。  二人が眼を閉じたのは、それに眼を灼かれたのと、恐怖のあまりであった。  何も起こらなかった。二人は眼を開いた。白熱の視界を黒い人影が切り取っていた。 「——D!?」  その前方に闇がわだかまっていた。一刀を構えた影の美しさに恍惚となったのか、その全身からみなぎる鬼気に怯えたのか。  吸雷獣に呑みこまれた男が、雷光とともに復活した。  彼は前へ出た。闇が後じさる。刀身が躍った。  闇が裂けるのを二人は見た。  ピロンがあっと叫んだ。  裂傷の四方から闇が広がり、溶け合って暗黒が復活した。  次の瞬間——  それは美しい若者めがけて獰猛な野獣のごとくのしかかった。 [#改ページ] 第七章 明日への可能性    1  黒衣が闇に呑みこまれる。それは絶望の瞬間だった。  姉と弟は見た。  中天から地上へと疾《はし》るひとすじのかがやきを。  それは闇を裂いた。  正確には稲妻の落ちた刀身が白熱の一閃と化して、闇を断ったのだ。  姉弟は耳を押さえて蹲《うずくま》った。声なき声の——この世のものではない悲鳴を、彼らは聞いたのだ。  それが消え、そのせいで生じた悪寒が消滅するまで、どれくらいかかったかはわからない。  顔を上げると、黒いコートの上に乗った美貌が見えた。それだけで、レダは我を忘れた。篠つく雨も冷風も、いま消滅したばかりの影の恐怖も、すべて遠ざかった。  素敵という感情さえ浮かんでこない。若者の美貌は人間の感情の昂ぶりを、発狂寸前まで高らしめるのだった。 「D」  と呼んだのは、ピロンだった。 「何だ?」  声は嗄れていた。少年は眼を剥いた。 「あーっ、チビハゲ」 「うるさい」  とDの隣で、男爵は唇を歪めた。 「何処へ行ってたんです? ひとりで逃げ出して」  とレダも眼尻を吊り上げた。 「何じゃ、その眼は? それが恩人を見る眼つきか?」 「恩人〜〜!?」  姉弟が声を揃えたのは言うまでもない。とんでもない——どころか、度胆を抜く話だった。  彼らは、また眼を丸くした。 「そのとおりだ」  とDが補佐するとは。  二人とも茫然としている間に、 「わしがおまえらを見捨てて逃げたと思うたか? 人間と一緒にするな。いなくなったのは、深い考えがあってのことだ。その上、おまえたちに逃げろと忠告もしてやったぞ」 「あれは、何ですの?」  レダが、あくまでも愛すべき少女の口調で訊いた。 「精神感応《テレパシー》じゃ。何処の貴族でも使える技ではないぞ。わしならではの能力《ちから》じゃ」 「そんなもの隠してやがったのか」  ピロンがいきなり男爵の向う臑を蹴とばし、悲鳴を上げさせた。 「よせ」  とDが言った。口もとがかすかに笑っている。 「おれが戻ってこられたのは、この貴族のおかげだ」 「えーっ!?」  驚く二人へ、男爵はぴょんぴょん跳ね廻りながら、 「わかったか。わしは、こいつを帰還させに行ったのだ」 「まあ」  とレダが胸前で、両手を握りしめた。役者というしかない。 「何も知らずにごめんなさい、男爵さま。あたしたちを置いて逃げるような方ではないと思っておりましたわ」 「それほどの男でもあるまい」  またDが言った。今度は嗄れ声で。ようやく跳ね廻るのをやめて、しくしく泣いていた男爵が、 「な、なんだあ?」  と涙目で喚いた。 「おまえは確かに、こいつ[#「こいつ」に傍点]——おれ[#「おれ」に傍点]を戻した。だが、いまの闇は、ありゃ何だ?」 「なな何だとは何だ?」  左手が上がった。何となく、Dの意志とは別の動きに見えた。 「おお、言ったるわい。あの影は、おまえが実験用の人間を捕えるための生物だろうが」 「何だってえ!?」  ピロンが眼を剥いた。両手でぐいと銃口を男爵に向ける。 「ひええ、やめろ、やめんか。おまえの親は何を教育した? 他人に銃を向けるなあ」 「やめなさい、ピロン」  とレダが銃口を下げさせたが、ピロンは承知せず、 「おれ、何にもわからないよ。説明してくれよ、お兄ちゃん」 「この辺りの土地は、こいつの別領地だったのだ」  と嗄れ声が言った。姉弟の眼は、その発声点——自然に垂れたDの左手に注がれた。気にもせず、声はつづけた。 「五千年以上昔の話よ。こいつが眠りについてから、大規模な地殻変動等が起きて、すべては地の下に呑みこまれた。その中に、おぞましい研究施設があったというわけだ。こいつは、そこの出入口を見つけて、わし[#「わし」に傍点]——おれ[#「おれ」に傍点]を呼び戻したのよ」 「そんなに簡単に見つかるものなのかよ?」 「わしの城だぞ、莫迦者。いつ何時でも入りこめるわい」  Dがふり向いて、通りの奥——影の去った方を見た。嗄れ声で、 「では、そこへ行くかの」 「えっ!?」  眼を丸くするピロンへ、 「仕留めてはおらんのじゃ。奴め、また来るぞ。自動修復機能を備えているとみえる」 「じゃあ——殺せない?」 「その辺は、こちらにまかせよう」  三人の眼に貫かれ、男爵はたじたじと後退した。 「自動修復装置など付けてはおらん。五千年の間に、誰かがあれに手を加えたのだ」 「おまえのメカに他人の手が加わったというのかの?」 「前言は撤回する」  男爵はぬけぬけと言って、腕を組んだ。 「しかし、五千年後、わしの覚醒を知ってエネルギー回路が作動したのはいいが、自動修復となると——ふむ、自分を進化させる機能を身につけたか」 「来るぞい」  とDが言った。男爵は思考を中断して、 「やむを得ん、来い」  とマーケットの方へ顎をしゃくった。  次の瞬間、Dのみは悠然と、他は必死で、マーケットへと走り出した。  店へ入ると、男爵は真っすぐ奥のドアへと突進した。体当りで押し開けると、そこは事務室である。  真っすぐ突っ切り、行き止まりで右を向く。  エレベーターのドアが一基、壁に嵌めこまれていた。  男爵が「下り」のスイッチを押した。  ドアはすぐ開いて四人を呑みこんだ。  男爵が“↓《ダウン》”のボタンに指を当てた。  ぐんぐん下がっていく。五秒とたたないうちに、ピロンが、 「地下一階までしか表示はないのに、凄えやどんどん下りてく。どうなってんだよ?」 「目下、一〇〇〇メートル——じきに着く」  男爵の説明は正しかった。  それから三十秒ほどで、エレベーターは停止した。 「三〇〇〇メートル。大層な地殻変動じゃったの」  開いたドアから男爵は外へ出た。その後につづきながら、ピロンは、 「どうなってんだよ」  と、つぶやくしかなかった。  そもそも、五千年前に地中に消えた遺跡に、地上の営業中のマーケットからエレベーターがつづいているというのがおかしい。  白い廊下は、素材自体が発光しているように見えた。 「姉ちゃん、貴族の家って、みいんな石造りじゃねえのかよ? まるで別世界だ」 「あれは田舎貴族どもの趣味だ。先祖伝来のやり方か。けっ、辛気臭くて反吐が出るわ」  一分も歩かず足を止めた男爵の前で、壁に楕円形の入口が開いた。  妙な部屋であった。  ピロンの次のひとことが、すべてを表わしていた。 「なんでえ、マーケットより狭いや。それに、机も椅子もねえの」 「机はある。椅子もだ。その辺にかけておれ。いま、広くしてくれる」  三歩進んで中央へ行き、男爵は両手を左右にふった。  音もなく壁が後退するのを見て、レダが眼を丸くした。思わず後退したピロンの腰が何かに当たり、わっとひっくり返った身体は、床から生えた椅子に柔らかく受け止められた。 「な、何だよ、これ?」  悲鳴とも歓びともつかぬ声を無視して、男爵は、これも床からせり上がってきたコントロール・パネルの表面を撫ではじめた。  ピロンたちの方からは見えないスクリーンを見る眼が、激しく動揺した。 「危《やば》いぞ、D。わかるか?」  彼の背後にいた黒衣の若者が、 「来たな」  と言った。 「コントロールはできるか?」  すでにせわしなく両手を動かしていた男爵が、ふり向いて、 「あかん」  と言った。何処の国の言葉なのか、姉弟には見当もつかなかった。 「コントロール不能だ。おまえに斬られて性能異常を起こした上に、地殻変動のショックで、思考部位に狂気が生じている」 「出来損ないめ」  と嗄れ声が言った。  姉と弟は、ようやく二人のところへ行って、スクリーンを覗きこんだ。  レダが息を呑んだ。ピロンは声もない。  エレベーターのドアが映っている。ドアは開きつつあった。  いや——二枚のドアの接合点から、黒いものが滲み出しているのだ。あの影が。 「追ってきたな」  と男爵は何故か姉弟を見て、舌舐めずりをした。 「どうじゃ、二人とも出て行くか、それとも、どちらか一方を差し出すか? どちらが犠牲になってもよいぞ。おお、美しい愛情だ」  その声が突然、悲鳴に変わった。Dが拳で禿頭を一撃したのである。 「うーん」  と眼を廻したからには、相当強烈な一打であったのだろう。  だが、その襟首を掴んで持ち上げ、激しくふると、 「こら、眼が廻るぞ、放せ」  と叫んだ。 「野郎、平気だ」  ピロンが息巻いた。 「このままでは、研究施設も呑みこまれるぞ」  とDが言った。姉弟のみか男爵まで安堵の色を浮かべる。Dの声であった。 「呑まれたら、どうなるの?」  レダが金切り声を上げた。スクリーンの影は、すでに廊下を前進しはじめていた。壁も天井も黒く染まっていく。  男爵が唇を歪めて、 「内緒じゃ」  と言った。そのかたわらで、 「止められるか?」  とDが訊いた。 「いいや、あれはもう狂っておる。わしの作ったものとは違う」  と男爵が胸を張るのを、ピロンが後ろから近づいて、尻を蹴とばした。 「出るな」  とだけ言い残して、Dは出現した出入口をくぐった。 「素敵」  とレダが呻くように洩らした。少女の顔は恍惚と煙っている。 「あの人こそ、男の中の男よ。D——D。この名前、一生忘れないわ」 「なーにを餓鬼のくせに股間を濡らしておる。あんなもの、背が高く色男というだけの偽者じゃ。生まれついてのペテン師よ。男とはそもそもわしのような——ぎゃっ!?」  レダの投げた靴を顔面に食らってのけぞる男爵を尻目に、姉と弟はスクリーンに眼を注いだ。    2  廊下を進む暗黒。  ——Dが見たい  レダが心底から望んだ瞬間、スクリーンは二つに分割され、壁の前に立つDが映し出された。 「無茶をしよる」  呻く男爵の声が、二人の耳を叩いた。 「あれをこしらえたとき、捕えた人間どもはここへ連れてきた。だが、いまはどうするのか想像もつかん。大宇宙の果てへ放り出したか、異次元へ送ったか。さっきは向うも油断したが、今度はそうはいかん。あいつを斃《たお》せるものは——」  レダがふり向いた。 「誰?」  と訊いた。悲痛な声である。 「——世にひとりしかおらん。いや、この世にいるのかどうか」 「じゃあ、Dは……」  呆然とよろめく少女の肩を、ピロンの手が掴んでゆすった。 「来た。ぶつかるぞ!」  画面はひとつに戻っていた。  Dと、その前に広がる闇と。  停止した闇からは、スクリーンを通しても凄まじい殺気が感じられた。対してDは——真の闘争者とはこういうものなのか。吹きつける闇の凶気を、美しい黒影は平然と呑みこんでいるのだった。 「まさか……」  と男爵がもう一度つぶやいた。 「わしの“闇”が——怯えているのか!?」  その刹那、声なき叫びが室内に噴き上がった。  闇が、またもDを襲ったのだ。  今度は雷《いかずち》の助力もない。  光が!  Dの一刀であった。  世界を闇が支配した。 「いかん」  男爵がつぶれたような声で言った。 「呑まれては、もう……終わったな」 「嘘よ!」  とレダが叫んだ。 「あの人がやられるはずはないわ。そんなこと言うんなら、あんたなんか八つ裂きにしてやる!」 「姉ちゃん——あれ!?」  レダはふり向き、ピロンの指がさす方向を見つめた。  戸口のある壁に、黒い染みが広がっていく。闇はここまでやって来たのだ! 「ひええええ」  勿論、男爵だ。  声もなく姉弟は後じさった。その眼の前で、壁も天井も壁も黒々と染まった。 「姉ちゃん」 「ピロン!」  二人の頭上から、巨浪のごとく暗闇がのしかかった。  猛烈な力が身体に巻きつくのを二人は感じた。  そして——  何も起きなかった。  ピロンは眼を開いた。  レダが、きゃっ、と叫んだ。  途端に力がほどけた[#「ほどけた」に傍点]。男爵はふて腐れたように眼をそらし、 「やられた」  とつぶやいた。  その意味は、三人の足下に転がっていた。  闇である。  レダの爪先二〇センチほどのところで停止していたそれ[#「それ」に傍点]の端を、ピロンが軽く蹴った。  黒い霧が足首までを覆い、すぐ床に散った。  ピロンは膝を折り、じっとその微粒子ともいうべき細片を眺めていたが、すぐ、 「姉ちゃん——これ、機械だよ」  と口もとに手を当てた。  レダは、えっ!? とそちらを見たが、それ以上の行動は起こせなかった。 「ほら」  弟が人さし指を押しつけ、レダの眼の前に示したものは、微細な黒い粒の集積であった。眼を凝らせば、確かに、表面は金属だ。  二人はゆっくりとふり向いた。  男爵はそっぽを向いて口笛を吹いた。  何か言いかけたピロンを、レダが止めた。 「およしなさい。こいつ——いえ、男爵さまに何を言っても無駄よ」 「そのとおりじゃ」  本人に似合わぬ嗄れ声が、何と甘美に鼓膜へ当たることよ。 「D!?」  身をひねった二人の前で、黒衣の若者はすでに刀身を収めていた。 「どうやった?」  男爵が、ぼそぼそと訊いた。 「わしの作ったメカニズムは、いかな貴族も破壊できないはずだ。まして、こいつは自己進化を遂げ、さらに強烈に悪辣になっていた。どうやって、それを斃した? 答えろ」  Dは答えた。 「行くぞ」  姉弟は、別の出入口でもあるのかと思ったが、Dはそのまま闇に吸いこまれた。機械の闇に。 「姉ちゃん——?」  ためらうピロンへ、レダは力強くうなずいてみせた。 「大丈夫よ、あの人が入っていったんだもの。あたしたちも大丈夫」  なおも不安を隠せないピロンの手を取るや、Dの後を追った。  闇の奥に、ぼんやりとDの姿が見えた。後をも見ずに歩む姿の何という美しさ。レダばかりかピロンまで、長い長いため息をついたほどである。  エレベーターまではすぐのはずなのに、闇はいくら歩いても尽きなかった。 「ここ、何だかおかしいよ」  と、ピロンが足を止めて四方を見渡した。 「どうしたの?」 「ぼんやり透けて見えるんだ——あれ、何だよ?」 「そういえば——やだ、骨だわ」 「何処の骨?」  ピロンの声は沈んでいた。そのくせ、爆発寸前なのもよくわかった。 「そこいらじゅうの骨よ。頭蓋骨、大腿骨、仙骨、座骨——骨という骨はみいんな透けた闇の向うに溜まっている。町の人たち全部よ」 「………」 「まったく、おかしな変化を遂げおって」  すぐ背後でふて腐れた男爵の声がしたが、もう怒る気にもならなかった。  そのままDの後を追い、五分ほどで闇を抜けた。  まばゆい光が泥道を照らしていた。三人は、通りの真ん中に立っていた。  レダが空を見上げて、 「太陽があんなところに——もう昼過ぎ?」 「十分も歩いてないぜ」  かたわらに立つDより早く、おほんと咳払いが生じて、 「教えてやろう」 「うるせえや、チビハゲ」 「な、なんだと!?」 「およしなさい、ピロン」  レダはあくまでいい娘[#「いい娘」に傍点]を通すつもりらしかった。 「教えて下さい、男爵さま」 「わしらは何処にいたかわかっておるか? 地下五〇〇〇メートルじゃぞ」 「そのくらい、わかってらあ」 「ならば、歩くだけで、そこを脱け出し、地上まで出たのだ。翌日の昼くらいまではかかる。人間の悲しさだな。そんなこともわからんか。はっはっは」 「わかるわけねーだろ、この莫迦貴族」  ピロンはまた蹴った。学習能力がないのか、運動神経の問題か、男爵はまた、ぎゃっと喚いてその辺を跳び廻りはじめた。 「とにかく、無事、外に出られたの」  とDが嗄れ声で言った。レダが、不可解、といった表情になる。 「腹ごしらえをして休め」  また、Dの声が変わった。レダが、無条件にうっとりする。 「陽が落ちる前に出掛ける。次はトロの町だ」  言いおいて、Dは黒い像と化した。 「あ」  と男爵がゲジゲジ眉を吊り上げた。 「地面が震えておる。しまった、研究所のエネルギー炉が暴走しはじめたぞ」  声を失う姉弟へ、 「——脱出だ。これだと、五分以内に一〇キロは離れんとな」 「無茶だよ、馬もないんだ」  ピロンが絶望的に首をふった。 「さっさと止めんか」  嗄れ声のDが男爵をせかしたが、彼はかぶりをふった。 「そうはいかんのだな。わしが何とかできたのは、一分前までだ」 「じゃ、どうするんです?」  レダの声は顔と等しく蒼白であった。 「そこに、解決の鍵がおる」  男爵はDに顎をしゃくった。  姉弟の顔に希望の色が浮かんだが、たちまち灰色の絶望に戻った。いくらDとはいえど、三人を連れて五分以内に一〇キロ離れるなど不可能だ。 「貴様、何を考えておる?」  嗄れ声のDが食ってかかった。 「いくら何でも、それは無理だ」 「なら、ここで炎に包まれるがいい」  男爵は嘲笑った。その指がDを差した。 「だが、そんな必要はない。おまえがわしの知っている男の手にかかった存在ならばな。こんな状況など、子供騙しのはずだ。おまえにはわからぬかも知れん。だが、おまえも知らぬおまえは知っておる。さあ、死にたくなければ、発現させてみい。おまえの真の力を——あ奴[#「あ奴」に傍点]から与えられた貴族の中の貴族の技を。それこそが明日への可能性じゃ!」  怒号にも似た叫びであった。この莫迦貴族が、という眼で凝視していた姉弟も息を呑んだ。大言壮語というには、火のような真情がこもっていた。  Dは沈黙していた。  動揺もなく、ひっそりと息づく冬の聖夜のごとく。 「……あと一分」  と男爵は言った。 「こら、どうすればいいのじゃ?」  と嗄れ声が訊いた。それがDの声だと、姉も弟ももう信じてはいなかった。 「わからんな」  と男爵が応じた。皮鞄を握りしめ、生唾を呑んで、 「——あと十秒」  貴族も人間も変わらぬと思わせる、生死を分かつ口調であった。  Dの顔が上がった。彼はこのとき、彼にだけ聞こえるある声を聞いたのだ。  ——成功例はおまえだけだ 〈北部辺境区〉の一角で、小さな田舎町が地上から消滅した。やがてそこから直径一〇キロにわたって深さ一キロの大空洞が穿たれ、かつて存在していた分子の一個までが消滅させられたが、わずかな放射能も発見されないことが、『都』から来た調査団を驚かせた。    3  うーむ、と豚のような呻き声が闇の中に響き渡り、男爵は眼を醒ました。 「何たる下品な声だ。悪夢だ」  とつぶやいてから、苦い顔になる。自分の声と気づいたのだ。立ち上がる前に、右手の皮鞄を確かめ、周囲を見廻した。 「げ」  見渡す限りの砂漠であった。  頭上から照りつける陽光が白い砂を灼いている。鼻孔を刺すおかしな臭いは、灼かれた砂のものに違いない。  眼を凝らしても、見えるのは蜿蜒《えんえん》と続く砂丘の連なりだ。 「ふむ、爆発のショックでこんなところへ飛ばされたか。他の奴らとはもう会えんかも知れんな。何にせよ、生命あっての物種だ。さすがはDと呼ばれる男よ。ぎりぎりのぎりで、わしの期待を裏切らんかった。“神祖”よ、よくやったぞ」  状況と運命を把握してから頭上に手をかざし、 「何たることだ。神はこの大貴族アルプルプ・マキューラ男爵に日干しの運命を与えるおつもりか? 糞、ならば反抗するのみ。わしの仲間は神にすら挑んだのだぞ」  絶叫は白い光と蒼穹《そうきゅう》に吸い取られた。  男爵はため息をひとつつき、 「……行こ」  ぽつんとつぶやいて前へ進もうとし、 「どっちに行けばいい?」  とまたつぶやいた。 「いや、何処へ行けばいい? わしの領地へ戻るか? いや、遠すぎる。記憶にはこんな砂漠はなかった。すると、人間どもの街があるのか? いやいやいや、貴族だと知れたら、たちまちこの高貴でか弱い心臓へ、野暮な杭をぶすぶす打ちこまれるのがオチじゃ。となると、行く所がないな。えーい、近くに貴族の城はないものか。うーむ、こうなると、貴族たる身も三界に家無しだ。仕方がない。とにかく進むとしよう」  いかにもふて腐れた様子で、皮鞄を片手に歩き出した。  白い砂ばかりの世界を、小さな点のような人影が、ちょこちょこと歩いていった。  遥か天の高みから望めば、ほんの数十センチで、それは動かなくなった。 「熱い」  と汗みずくの禿頭を拭いながら男爵は呻いた。  前方に砂丘がそびえているが、その彼方のことを考えると、気力が湧かなかった。 「糞お」  と大の字になった身体を、陽光がじりじりと灼いていく。これでも五キロは歩いたのだ。貴族の体力である——といっても陽光の下を歩く貴族というのは本来あり得ないから、自慢になるかどうかはわからない。  意識は急速にかすんでいった。不老不死の貴族とはいえ、陽光の下を歩けるようになった分、体力的に大幅なパワー低下は免れない。 「何かおかしい」  ぷつりとつぶやいた。その何かがわからぬまま、意識は暗黒に呑みこまれた。この場合、Dが罹る“陽光症”がいちばん近い状態といえるかも知れない。  何とも心地よい刺激が全身に沁み渡り、男爵はふたたび覚醒した。 「おお、生きていた!」  叫んだ途端、頭から水をぶっかけられた。 「ひええ——何をする!?」  対する返事は、 「おや、このチビハゲ親父、水かける前に眼を醒ましやがったぞ!?」  頭にターバンを巻き、サンバイザーとごついゴーグルをつけた男たちが三人、粗末な組み立てベッドに横たわる男爵を見つめていた。  ヘルメットに汲んだ水をかけたのは、そのひとり——髭面の大男であった。  自分がテントの内側にいることに男爵はもう気づいていた。だからこそ、水を浴びる前に、身体は正常に戻ったのだ。たちまち男爵はふんぞり返って横柄に、 「おまえたちは何者だ?」  と訊いた。 「てめえこそ、おかしなカッコしやがって」  と潅木みたいにひょろ長い男が喚いた。 「真っ昼間、砂漠を歩く莫迦がいるか。昼間は何とかやり過ごして、夜歩くのがセオリーだぜ。おめえ、人間か? それとも——狂人か?」 「きき貴族だ、無礼者めが」  青すじを立てた怒号を迎え討ったのは、三人の爆笑であった。  三人目——壁みたいにがっちりした男が手を叩いて笑いながら、 「陽の下をうろつく貴族がいるか、この阿呆野郎。てめえを助けたのは、身寄りの者から、お助け料をいただくためよ。さ、名前と住所を吐け」 「わしは北部辺境区もと総督アルプルプ・マキューラ男爵だ」 「まだ阿呆してやがるのか。おい、こいつは本物の左巻きだ。身ぐるみ剥いで放り出しちまえ」 「よっしゃ」  腕まくりして近づく三人組——しかし、いくらパワー不足に陥っているとはいえ、貴族たる者、底力を発揮すれば、人間の五人や十人、片手で捻ってしまえる。しかし、男爵が取った行動は、彼がいかに臆病かを示すものであった。 「待て、こら。近寄るな。金が欲しいなら、幾らでも造り出す方法を教えてやる」 「ふざけるな」  と意気ごむ二人を、ひょろ長い男が止めた。じろじろと遠慮のない視線を男爵の全身に注いで、 「このチビハゲ、確かにおかしなところがある。ひょっとしたら〈犠牲者〉かも知れねえ」 「それにしちゃ、傷痕がねえよ」  と大男が自分の喉を指さした。  残るレスラー・タイプが、男爵の喉もとを掴んで、ひょいと持ち上げた。 「好きなだけ金を出すと言ったな、さあ、そのとおりにしてみろ」 「ぐぐぐぐぐ…わしの皮鞄は……何処だ? あの中に……」  レスラーがふり向いて、 「何処にある?」  と訊いた。  ひょろ長いのが頭を掻いて、 「捨てちまったよ。何も入ってなかったぜ」 「おい」  レスラーにさらに絞められ、男爵は必死に喚いた。 「ぐぐぐ……それは当然……だ……わしの皮鞄を開けられるのは……わしだけ……だ。早く……持って……こい」 「取ってこい」  と大男に言われ、ひょろ長いのが、飛ぶように出て行った。  レスラーが手を離し、男爵はベッドに落ちた。  ノッポはすぐに戻ってきた。 「無《ね》え」  と派手な身振りで、仲間たちの憎しみの視線を浴びる。彼の後からも四人の男たちが入ってきた。 「何処へやった、この莫迦者」  怒号したのは男爵である。 「あああれには……わしの研究の成果が……詰まっておるのだ。探せ……莫迦者ども……死んでも探せ」  声が途切れ途切れなのは、絞められたせいではなく、怒りによるものであった。  男たちの表情が変わった。ようやく、このハゲ、ただ者にあらずという気分になったのだ。  顔を見合わせてうなずくと、大男が、 「おい、手分けして探せ」  と命じ、レスラーが、 「ここを動くなよ」  と男爵に命じて出て行った。  テントが閉じられると、へたれていた男爵の全身に生気が漲り、にんまりと笑った。 「阿呆が。待っていろと言われて待っている莫迦が何処の世界におる? くくく、陽除けの布一枚あれば、砂漠だろうと溶鉱炉の中であろうと、わしは生きていけるのだ」  ひひひという顔で、ベッド上の上掛けを掴むと、それを頭からひっ被りテントの垂れ幕に近づいて、外を覗いた。逃げ出すこそ泥という雰囲気である。  足音やかけ交わす声が、かなり離れた場所なのを確かめ、男爵は外へ出た。  眼の前の砂丘を、訝しげな眼で見つめ、 「何じゃ、これは。形からしてわしが越えようとして倒れた丘ではないか。ここを乗り越えれば、こいつらがいたのか。糞」  ぶつぶつ言いながら、つないであるサイボーグ馬に近づく。  男たちが砂漠専門の狩猟屋《ハンター》らしいのは、もうわかっていた。スチール・パイプを組み立てた柵につないであるサイボーグ馬の手綱を一頭だけ残して緩め、 「ほれ、逃げろ!」  と尻を叩こうとした。手綱は軽く巻きつけてあるだけだから、いったん狂奔状態に陥れば、難なくほどけてしまう。  悲鳴が上がった。女の——それも少女の声だ、と男爵も気づいた。それにかぶって、異様な声と銃声が轟いた。 「あーっ!?」  男爵の絶望的な叫びも道理。サイボーグ馬がいななき、後足立ちになるや、一斉に走り出してしまったのだ。  あわてて追いかけようとした耳に、 「水獣だ!」  男爵より遥かに絶望的な叫びが天を衝いた。 「ひい」  声と反対の方へ逃げようとする眼の前へ、テントを廻って男たちが飛び出してきた。あの三人もいた。全員、死相だった。  男爵の顔が黒く染まった。  テントの向うから立ち上がったもの[#「もの」に傍点]が、陽光を遮ったのだ。  全長五メートルもある巨大な黄土色の虫が。瘤をつなげたような身体の何処にも眼をはじめとする感覚器官はついていない。皮膚の表面が金属状の光沢を放っているのは、地面をえぐりながら前進するためだろう。 「いかん、馬がない」  とにかく逃げようと足に力をこめたとき、 「逃げるな!」  鋭い叱咤が走った。 「ひええ」  立ちすくんだ耳に、おお、と力強く返す言葉と、銃声が弾けた。  巨大な虫めがけて、男たちが火薬銃を射ちまくっているのだ。 「子供を助けろ!」  レスラーの声だ。 「え?」  ふり向いた男爵は、男たちの眼が水獣の頭部近くに注がれているのに気がついた。  指の先に似た頭部のやや下に、見覚えのある娘が引っかかっていた。 「レダか!?」  このときようやく、 「助けてえ」  無我夢中の声が降ってきた。 [#改ページ] 第八章 五千年の怨念    1  レダも恐らく、男爵と等しく、エネルギーの暴走によって、この地へ飛ばされたものだろう。ただ、少々運が悪かった——いや、生きているだけよかったというべきか。  男爵に、あっと放たせたのは、その声よりも、レダの肩からぶら下がっている皮鞄だった。 「わしのだ。あのこそ泥娘め。おい、取り返せ」  かたわらの男の肩をゆすったが、 「てめえ、それでも人間か!?」  と突きとばされた。 「ちゃうわィ」  言い返した頭上から、黒いものが落ちてきて、突きとばした男を巻き取った。なんと、砂丘の向うから、もう一匹の水獣が顔をのぞかせたのだ。高さは——一〇メートルもある。 「何だね、あれは?」  こうなると細かい部分が見えないだけ、一種、荘厳の気さえ帯びて映る。男爵の声は感嘆に満ちていた。  訊かれた男は、血走った眼を左右に走らせて、 「“水獣”だ。貴族がばら撒いた妖物のひとつだよ」 「なぜ、あんなものを? 危険ではないか」 「貴族に訊け、貴族に」 「ふむ——まあ、それなりの理由があったのだろうな」 「莫迦野郎」  叫んだ身体が、ふわりと持ち上がった。  もう一匹の水獣が捕えた、としかわからない。巻きついたのでも、手足で掴んだのでもないのに、まるで貼りつかれたように持っていかれてしまったのだ。 「“飛火筒”を持ってこい」  と、あのノッポが叫んだ。額から血を流している。  二人ばかりがテントへ飛びこみ、黒い円筒とそれを支える台を担いできた。  すでに弾丸は詰まっているようだった。砂地に固定し、目測で照準を合わせて、発射レバーを引く。  ふたすじの炎と白煙が優雅な線を描きつつ虚空の“水獣”たちに吸いこまれた。  火球が生じた。血色だった。獣は四散した。破片が降り注いでくる。男爵は頭を抱えた。全身に飛び散ったのは、しかし、血でも肉片でもなかった。 「水だ!?」  すぐ横で、あの大男が呆れたように、 「なに驚いてやがる。あれは地中を移動する流体生物なんだ。固いものより流体の方が自在に動けるんだってよ。——おい、子供とアーニイは無事か?」  アーニイとは、持ち上げられた男だろう。  砂丘の方へ向かっていた男たちのひとりが、地面の人影を調べて、かぶりをふった。 「駄目か——娘は?」 「無事だ」  とテントの向うからレスラーの声がした。 「せめてもだな」  と大男がため息をついた。 「おまえらは阿呆か?」  と男爵は呆れ果てて訊いた。 「たかが小娘ひとりのために踏みとどまって、仲間を失ってしまった。見ず知らずの小娘と仲間と、どちらが大切だと思う? え?」  男爵は怯えた表情で、周囲を取り囲んだ男たちを見つめた。 「女子供を放って、男が逃げられるか? てめえ、それでも人間か、こら?」  と大男が肩をこづいた。 「な、何をする?」  言い返したところへ、 「違うわ。そいつ、貴族よ」  みなの視線がテントの横に立つレダに集中した。  服は破れ、右の肩は剥き出し、頭から砂を被った娘は、男爵を指さして叫んだ。 「あたしは知ってる、そいつは、陽の下を歩く貴族なの! 騙されちゃあ駄目」  数分後、ロープでがんじがらめにされた男爵はテントに入れられた。 「おまえが貴族なら、じき面白えところに連れてってやらあ。楔を心臓に打ちこまれたくなければ、おとなしくしてやがれ」  さらに数分後、なんとこれも縛られたレダが放りこまれてきた。 「何だ、おまえは? カッパライでもしたのか?」  茫然と尋ねる男爵へ、 「カッパライはこいつらよ」  とレダは吐き捨てた。 「砂漠ハンターの仕事っていうのはね、砂漠の化物と遭難者を見つけちゃ、近所の町で売りとばすことなのよ」 「売りとばす? 人間をか?」 「ぴんぽーん」 「おまえを助けたのも、その、売りとばすためか?」 「そればかりじゃないけど。助けてくれたときは、本気であたしのこと心配してたのよ」 「じゃ、助けた途端、どうでもよくなったというわけか?」 「そうね」 「訳がわからん」  男爵はこめかみに青すじをたてて沈黙した。 「助けた人間を売りとばすなら、最初から助けなければよかろうが。いや、売りとばすために助けたか? いや、それで人死にが出るなどあり得んから、おまえの言うとおり、本気で助けるつもりだったのだろう。うむ、ますますわからなくなってきた。おい、人間とは何者だ?」 「そんなこと知らないわよ。いい年齢《とし》して何言ってんの」  レダが妙に子供っぽく下唇を突き出して、イーっだをした途端、テントが動いた。 「移動しているぞ、何処へ行く?」 「人身売買市場よ。トロの町の近くね」 「ふざけるな、わしは貴族だぞ」 「だから売れるのよ。貴族が出るなんて百年に一度だわ。まして、陽光の下を歩ける貴族なんて、珍品中の珍品よ」 「珍品とは何だ、珍品とは。わしは脱出するぞ。人身売買などという屈辱には耐えられん」 「あの皮鞄——あいつらが持ってるわよ。素手で何とかできるの? もう少しで陽が沈むけど、そうなると、外は砂漠の化物どもの巣よ。あいつらも昼は暑いから、夜、うろつくの」 「ぐえ」 「おとなしくしてなさい。これが人生ってものよ。そのうち何とかなるわ——どんな形にせよ」 「こ、小娘が聞いた風な口をきくな!」 「何が小娘よ。こっちは、あんたみたいに、五千年も眠ってた世間知らずじゃないのよ。十四年間で、この世のいいことも悪いことも、みいんな味わってきちゃったわ。六つのとき、パパとママが逃げちゃって、弟ともども泥棒に拾われてから、ずうっとこの仕事よ。左のオッパイなんか自警団に切り取られちゃったわ。弟は、右足の指が全部ないのよ。やくざの懐を狙っちゃったものでね。それでも、生きてかなきゃならないの。今度、人間とは何だ、なんてごたく並べたら、あんたの金玉蹴りつぶしてやるから」  男爵は歯を剥いた。はじめて出会ったとき、ピロンが口にした内容とまるで違っていたからだ。そして、どう考えても、こちらが——姉の言い分が正しい。 「こここの大嘘つきども。無事にここを出たら、八つ裂きにしてやるぞ」 「うるさいわね、このへっぽこ貴族。お城を出たら何にもできないくせに、子供に凄むな、べー」  この間も、テントは激しく揺れながら進み続けていく。夕闇の砂漠をトロの町へ。  テントが停まり、ノッポと大男が暁光とともに入ってきた。 「着いたぞ。ひと休みして、昼前から競り市だ」 「何だ、それは?」 「競売だ。生活用品から妖獣、武器に至るまで売りさばく。町の連中が値段をつけて高い奴が手に入れるんだ。貴族というのは珍しい。たんまり儲けさせてもらうぜ」  男爵は怒り狂った。 「きき貴様、人間の分際で貴族を売りとばすつもりか。天罰が下るぞ」 「阿呆が」  ノッポは嘲笑った。 「天罰なら、おまえらがこの世にのさばり出したときに下ってるさ。それより、このテントの裏はシャワー室になってる。お客に小汚ねえ商品は見せられねえからな。二人とも、せいぜいきれいにしとくんだ」 「ああ、よかった。さっぱりできる。どっちが先に浴びる?」 「おまえは溺れるほど下品に浴びるがいい。わしは御免だ」 「やだ、きったない。どうしてよ」 「貴族に流れ水は禁物なのだ。知らんのか?」 「ああ、そういえば。だから、川の近くにはお城がないんだってね。何でも、随分と昔、世界中の川を埋めたてる計画があったと聞いたわよ」 「そうじゃ。だが、それは理想とする中世世界の再現に反することになるとして、却下された」 「へえ、まともな頭の持ち主もいたのね。——じゃ、お先に」  レダは奥の垂れ幕をめくって姿を消し、やがて、慎ましいシャワーの音が響いてきて、男爵の顔をしかめさせた。  トロの町は〈北部辺境区〉のほぼ中央に位置する。  近くに反物質の抑制触媒を産出する鉱山があるため、地理的な不便さにもかかわらず、町は隆盛を極め、人口は七千余と〈北部辺境区〉でも五指の盛況を誇る。  郊外には、鉱石運搬用の飛行場を備え、〈工業区〉への輸送線路は、日に五十本もの貨物列車の往復で、いつも灼けている。  酒場、賭博場を代表とする歓楽街も殷賑《いんしん》を極め、多くは昼さえネオンきらめく営業時間内だ。それを可能にしているのは、歓楽街のみを覆う人工の夜——分子着色技術の生んだ化学的めくらましなのだ。  晴れ渡る蒼穹の下、闇に閉ざされた一角からは、不夜城の明りがきらめき、歌声や銃声が洩れる。  そこの住人は、流れ者、賭博者、バーテン、踊り子、無法者、戦闘士、殺し屋、用心棒、娼婦、妖物売り、武器商人etc。  およそ、辺境の町々で考えられる限りの悪徳が、この昼なお暗い一角で考案され、実行に移される。  人身売買もそうだ。  そして、今日の競りは、いつもと少し違っていた。  ずらりと並んだ妖物商、私娼窟の親父たち、金持ちたちの前に連れ出されたのは、まず、十三、四と思しい少女であり、チビででぶの禿頭であった。  少女——レダが即席の壇上に引き出されたとき、どっと湧いた群衆は、次に現われた禿頭——マキューラ男爵を眼にした途端、驚きと呆然と嘲笑とが一塊となったどよめきを上げた。  彼が貴族——それも陽の下を歩ける貴族と紹介されるに至り、それは爆笑と化した。 「何処が貴族だ。そんな品のないチビ野郎が」 「低能面だ、低能」 「貴族マニアの親父だな。莫迦野郎、とっとと下りろ」  嘲罵の雨にムッとした男爵が、何を言うか、わしは正真正銘の貴族だと喚いたが、嘲笑は激しくなるばかりだった。  まず、レダが競りにかけられ、『パストラル』という娼館の女将が落札した。 「やった!」  というVサインを作ったのは、これで定職が見つかったという旺盛な生活力のせいか、いずれ逃げ出してみせるという自信の表われか。  誰が見ても、次の男爵は千ダラス以上では買い手がつくまい、と思われたが、 「一万ダラス」  と声があり、それがどうやら、みなが予想していた買い手らしく、動揺も競争相手もなく決まった。    2 「自称アルプルプ・マキューラ男爵は、ベル・カミスクリ夫人が落札しました」  係員の宣言に、壇上の男爵は訝しげな面持ちで観客を見つめたが、声をかけたのは、良家の執事と思しい人物であった。  壇上から下ろしにきた係員に、 「おい、何者だ、そいつは?」  と訊いた。 「この町でも一、二を争う名士の奥様だ。様々な品のコレクターとしても有名さ。ことによったら、おまえもコレクションのひとつにされるのかも知れないぜ。『貴族NO・1』ってな」  武装した係員に囲まれて、豪奢な馬車に乗せられると、男爵は真っすぐ町の南にある住宅地へと運ばれた。歓楽街の騒ぎをここまで持ちこむ人間はいない。それが町の掟——不文律であった。  競りの係が言ったとおり、馬車の吸いこまれたのは、門から住居まで馬車でさらに三十分も要する広大な屋敷であった。  まるで中世の城か教会のような家へ入った彼を、アンドロイドの召使いが迎え、広間のような一室へ導いた。 「何だ、ここは?」  男爵がつぶやいたのは、室内が薄闇に閉ざされていたからだ。 「酔狂な人間どものお愉しみか。ふん、見ておれ、必ず逃げ出し、眼にもの見せてくれるぞ」  呪詛とも取れるひとことを放ってから、男爵は鼻をひくつかせた。おなじみの臭気がたちこめている。 「これは血臭だ。ふむふむ」  他の貴族なら両眼を爛とかがやかせ、舌舐めずりするところだろうが、男爵は心細そうに上衣の襟を合わせた。 「何と薄気味の悪い。わしは繊細な貴族なのだ。明るい室内を希望する」  まるで、その声を待っていたかのように、ひとすじの光が男爵の頭上から前方の床を照らし出した。  人影が浮かび上がる。  男爵が、あっと叫んだ。  レダは男爵より一時間ほど早く、『パストラル』に着いた。  早速、衣裳部屋へ連れていかれ、 「好きな服にお着替え。それから初歩の心得のお勉強だよ」  連れてきた女が去って、着替えも終わったとき、別の派手な化粧の中年女が現われ、 「あんたにお客がついたよ。驚いたこと。競りでの話を聞いたってさ」 「でも、あたし、何にも」 「なに、大丈夫さ。男の歓ばし方なんて、女に生まれりゃ一発でわかるよ。ガッツで稼いどいで」 「はーい」  もうプロ並みの媚を含んだ返事を返し、レダは女について待合室へ向かった。  中にいる客を見て、レダは立ちすくんだ。 「ベグリイ公、こんなところで何をしておられる!?」  叫んでから、男爵は愕然と—— 「この表情は——脳手術を施された患者特有のものだ。一体どうなされた?」  五千年前の知り合いの無惨な姿に我を忘れたか、思わず近づいて、相手の肩を掴んだ。  ぼろぼろの衣裳をまとった髭だらけの男の足下で、固い音が鳴った。彼の四肢は長い鎖で床に固定されているのだった。 「豪勇無双で知られていた貴公を、一体、誰がどのようなやり方でこんな目に。許さぬぞ、人間め」  再び、その言葉が引金を引いた。  世界はまばゆい光に満たされたのである。  けたたましい笑い声が、高い天井の何処かに反響した。  召使い《サーバント》アンドロイド——サーブロイドに四方を囲まれた老婆が、ドアのそばに立っている。長いガウンにはおびただしい数の宝石が縫い止められていた。 「な、なんたる悪趣味な婆あじゃ。貴様、すぐ我々二人を解放せい。ベグリイ公を医者へ——いや、このわしが直々に治療するぞ」 「我が館へようこそ」  と老婆は、恐ろしく嗄れた声で言った。 「沢山のものが集まった。でも、貴族はこれで、ようやく二人目。また百年間、怨みを晴らさせてもらえますわ」 「百年?」  男爵は眼を細め、それからばかでかく見開いて跳び上がった。 「貴様、ベグリイ公を百年も……人間の分際で……何の怨みがある?」  怒りのために声ももつれた。禿頭から湯気すら噴き上がった。冷やかな声が、それを凍らせた。 「そのような扱いを受けるのも貴族だからです。ほほ、さすがに貴族、人間なら千度も死んでいるような目に遇わせても、平気で甦ってくる。それは、とても素晴らしく、辛いことですわね」  男爵はゆでたタコのようになった。 「えーい、許さん」  老婆めがけて駆け寄ろうとするその首に、背後から細い腕が巻きついた。 「べ、ベグリイ公!?」  驚愕の表情が、みるみる充血し、鼻孔から血がしたたりはじめた。 「そこまでにおし」  と老婆が止めた。 「おまえの代わりにこれから百年、あたしを愉しませてくれる御方だよ。さあ、おどき」  腕が離れ、男爵は自由になった喉に手を当てて咳きこんだ。  その周囲を青白い光が走った。  高圧電流に灼かれた空気とイオンの匂いが鼻を打つ。  アンドロイドたちの胸部に放電葉が開いていた。  ベグリイ公爵は、炎と黒煙の中でのたうち廻った。電撃はさらに彼を打ちつづけた。 「私を怨まないで下さいませ」  と老婆はささやくように言った。 「少なくとも、ベグリイ公は怨みなどしないでしょう」 「彼が何をした?」  と男爵は叫んだ。 「次はわしだ? わしがおまえに何をした?」 「貴族が人間に何をしたかご存じでしょう?」  老婆は訊き返した。返事はすぐにあった。 「おまえたちを奴隷として扱ったことか? それがなぜ悪い? そういう関係だったではないか。おまえたちは、それに異議を唱えなかったぞ。少なくとも——五千年前までは」  老婆は、垂れ下がった瞼の下で、あるかなきかの眼をしばたたいた。 「五千年?」 「そうだ、五千年の間、わしは眠っていた。その間、何があったのかは想像がつく。しかし、何があったにせよ、五千年もあれば、水に流せるのではないか?」  老婆は細く笑った。 「そうね、五千年もあれば。答えは、これをご覧なさい」  突然、男爵の周囲を炎が包んだ。  薄闇が、ずうんと——闇に変わった。  右を左を、人影が逃げまどっている。人間たちだ。単身の者も、子供の手を引いた男も、赤ん坊を抱いた女もいた。  激しい息遣いが男爵の耳を打ち、渦巻く夜風が頬を叩いた。  ここは広い部屋ではなかった。  中天には真円に近い月がかかり、眼を凝らせば、燃える家々と彼方に城塞の輪郭が窺えた。  女の悲鳴と絶叫が男爵をすくませた。  黒い騎馬隊が前方を横切った。  ——あれは!?  立ちすくむ男爵の前で、槍の穂が月光を撥ね返した。  逃げまどう人々の影が空中へ舞い上がる。  それは牛馬の肉片のごとく重なり、空中でひとすじの槍影に串刺しにされた。  闇の中に飛び散る真紅の霧を男爵は見た。  眼の前に、黒い馬が停止し、ひときわ巨大な騎手が彼を見下ろした。騎手は左手に握った塊を口に咥えた。  あたかも男爵が見えるかのごとく兜を上げて凝視し、すぐに馬首を巡らせた。 「ま……」  一歩踏み出したとき、男爵の足下に小さな影が投げ出された。  三、四歳と思しい男の子の死骸だった。彼の首は半ば噛み裂かれていた。  静寂が戻った。  もとの部屋にいる。 「五千年もあれば、怨みは晴れるかどうか——おわかりかしら?」  老婆の声は、男爵を棒立ちにさせた。 「現在《いま》の世がどうなのか、わしは知らん。だが、五千年前はあれが普通だったのだ。それに、おまえは何者だ? いくら年寄りでも五千年は経ていまい」 「私は五千年も生きていないけれど、怨みは生き延びる。私はそれを貴族に味わわせる伝達者よ」 「訳のわからんことを言うな。五千年を細々と命脈を保ってきたセコい呪いか——人間というのは、何たる暗い生き物だ。えーい、さっさと滅ぼしておけばよかったわい」 「お黙りなさい」  老婆は右手を上げた。  暗黒に数個の光点が生じた。  そこから同じ数の光のすじが、立ち尽くすベグリイ公の身体を貫いたのである。それはアンドロイドの放電より淡く、弱々しかったが、百万倍もの苦痛を公に与えたのである。衣服は火を噴き、肉は焼け爛れた。  陽光であった。  のたうつ貴族、溶け崩れる貴族を、男爵はその上に身を乗せて庇った。 「やめぬか。この男をいつ捕えた? 何年間、苦しめ続ければ気が済むのだ? 考えてみろ、彼は不死だ。そのために永劫に苦しまねばならぬ。ひと思いに殺されるおまえたちの方が、よほど苦しまずに済むのだ。楔を貸せ。わしがひと思いにとどめを刺してくれる」  老婆は笑わなかった。男爵に向けられたのは、奇妙な眼差しであった。 「そう……長すぎたかも知れませんね」  男爵は眼を剥いて老婆を見つめた。  男爵の足下に一メートルもある白い楔が投げ出された。  男爵がそれを拾おうと身を屈めたとき、 「およしなさい」  と老婆は前へ出て、代わりに拾った。それを高々と持ち上げて、 「その男は私が処断いたします」  老婆とは思えぬ滑らかな足取りで公に近づいた。なおも黒煙と小さな炎をまといつかせた上体——心臓の真上に狙いを定める。 「これでおしまいにしましょう。さようなら、公よ」  楔は突き出された。    3  鋭く研ぎ澄まされた切尖を鉄のような指が掴んで引いた。  あっという間に、老婆は男の腕の中に抱きかかえられていた。 「ベグリイ公!?」  呆然と叫んだ以上、男爵の行為ではない。  老婆の喉に楔を閂のように横にして食いこませ、にんまりと笑った唇からこぼれる乱杭歯——ベグリイ公爵であった。  公は高らかに笑った。狂気に近い——しかし、決して狂ってはいない哄笑が、薄闇の世界を震撼させた。 「ベグリイ公、貴公は正気だったのか!?」 「おおともよ、おまえのことはよく覚えておるぞ。息災であったか、マキューラ男爵よ」 「何とか永らえておりますわい。ここでおめにかかれるとは重畳《ちょうじょう》。いや、万人の支えを得た思いでございます」 「はは、相も変わらず他力本願、気弱な男よ。まあ待て。わしとおまえで五千年の栄華を築く前に、五千年の怨みを晴らしてくれる」 「はあ?」 「この女を八つ裂きにした上で、このつまらん家屋敷を手に入れ、近隣の征服からはじめるのだ」 「いや、公よ、それはちと……」  復讐の炎に燃える眼が、男爵を射抜いた。 「異論があるのか?」  男爵はすくみ上がった。 「いえ、何も。——あ、いや、少々」 「何がだ?」 「その、人間どもが我らを怨むのも、それなりに首肯できる理由があるのではないかと」 「………」 「いえいえ。その——お互い、もう忘れようではありませんか、と」  揉み手する男爵を、ベグリイ公は軽蔑しきった眼で見つめた。 「わしが眠りの昼に襲われ、こ奴らの仲間に拉致されたのは、ざっと五千と三百年前だ。それから今日まで、奴らの慰みものにされてきた。〈北部荘園〉の七割を制していたわしが、人間ごときにだ。その屈辱がおまえにわかるか?」 「も、勿論」 「なぜわかる? おまえはわし[#「わし」に傍点]か?」 「いや、そう絡まれても」 「なら、差し出がましい口をはさむな。わしは五千年以上、四肢に楔を打ちこまれ、陽光で顔を灼かれ、面白半分に酸で骨と肉を溶かされた。〈荘園〉はことごとく燃やされ、すべては灰と化した。わしの娘も息子も家臣団もすべて滅ぼされたのだ。おまえなら、いま、これからどうする? 何もなかったように、人間と和睦するか?」 「そうはいきますまいなあ」  老婆は身をよじった。 「それは、あなたたちが人々を虐殺したからです。何の理由もなく、無惨な実験の材料にすべく村の娘たちをさらい、止めようとした家族を無慈悲に惨殺したからです」 「それが貴族と人間の正当な関係というものだ」  楔の先端が老婆の胸に食いこみ、鮮血をしたたらせた。老婆はつぶれるような声を上げた。 「それはその」  男爵はあたふたと言った。 「考えてみれば、お互いさまではないかと。この場合、必要なのは譲歩——歩み寄りでございましょう」 「ならぬ」  公爵の苛烈な声は、ホールのような室内を凍てつかせた。 「軟弱者はもはや口をはさむな。まずはこの女——八つ裂きとはどういうものか、とくと見ておけ」  ベグリイ公の楔が持ち上がった。男爵は心臓を貫かれてのたうつ老婆の断末魔を見た。 「ぐおおおっ!?」  獣のような苦鳴が噴出した。  楔を持ち直そうとして果たせず、ベグリイ公のわななく指は、貴族への武器を放した。その手の甲から手の平へ、ひとすじの白木の針が抜き出ていた。  双眸を憎悪の赤に光らせつつ、ベグリイ公はふり向いた。まだ老婆を放そうとしない。  薄闇の中に、三つの影が立っていた。  小柄な娘と少年と長身の——何という美しさ。影とても。 「貴様、何者だ!?」  ベグリイ公が歯を剥いた。 「D」  人影が前へ出た。右手が背を飾る長剣の柄《つか》にかかる。  ベグリイ公は血走った眼で、新たな敵を凝視していたが、不意に、表情を歪めた。 「何たる奇怪な気配だ。これと同じものを、わしは一例しか知らぬ。しかし、それは……あの御方の……」  彼は後じさった。驚愕が醜い顔を染めていた。その手が力なく下がり、老婆はその場へ崩れ落ちた。 「聞いたことがある。あれは……マキューラ、おぬしから……わしは一笑に付した。しかし……ああ、それは……真実《まこと》だったのか」  音もなく、美影身は公の眼前へ迫った。  公は身を屈めて長い楔を拾い上げた。 「もしや、貴方は——貴方さまは!?」  両手で頭上にかざした楔を、かっと一刀が両断した。  五千年間、人間に苛まれてきた貴族の顔は顎の下まで裂け、次の瞬間、横殴りに走った一刀をもって、空中に躍った。  血の噴水を上げながら、どっと倒れた身体を見ようともせず、Dは老婆に近寄ってそのかたわらに片膝をついた。小さな影——レダとピロンも駆け寄ってきた。  二人の遭遇はDの力による。娼館へレダを訪ねた客は、Dと——ピロンだったのだ。 「お婆さん、大丈夫?」  レダの問いに、老婆は眼を開き、ゆっくりとかぶりをふった。 「心臓が……そろそろ寿命ね。あの貴族は?」  床の上に広がった灰色の塵の山を認めてから、ピロンが、 「消えちまったよ」  と言った。 「そう……それはよかった……お婆ちゃんは……あの人に済まないと……思っていたの」 「何だと?」  驚きの声は男爵であった。 「いくら貴族だからって……私にひどいことをしたわけじゃあ……ないの。ただ、私が生まれるずっと以前から……あの人は私の家にいて……そうして……あの人を責め苛むのが……私の仕事だった」 「そんな……」  レダとピロンが虚ろな表情でつぶやいた。 「どうして……五千年も?」 「怨みよ……あの人も口にしていたとおり……怨みだけが……私を支配して……いたの……おかしいわね、憎くもないのに……何とか……やれたわ……」  男爵が長いため息をついた。 「信じて、お嬢さん……私は……やめたかったのよ……どうしても駄目だった……いま思うと……あの人に殺された人々の無念さが……でも、もうおしまい……これでゆっくりと眠れるわ……私も……あの人も……。墓は……裏庭に……用意してあるわ……そこへ埋めてちょうだい……私も……あの人……も」  老婆はそれだけ言って口をつぐんだ。少し間を置いて、喉から、ひゅうというような音が洩れ、大きくひとつ身を震わせて、老婆はすべてから解放された。  誰も動かなかった。  何も言わない。  Dが背を向けた。 「行くぞ」  男爵に言ったのか、レダに向けたものか。  なす術もなく立ち尽くす三つの影が、ようやくその後を追って歩き出したとき、美しいハンターの姿は闇に溶けていた。  屋敷の玄関には二頭のサイボーグ馬と、優雅な馬車が一台停まっていた。  Dが召使いたちを眠らせる間に、ピロンとレダが廐舎から持ってきたものだ。  それにまたがって陽の下へ出たとき、男爵が太陽を見上げて、 「明るいのお」  と呻いた。 「ただ明るいだけかも知れぬな、この世界は」 「暗くたって、おんなじよ」  とレダが吐き捨てるように言った。それから、小さく、切なげに、 「同じなのかもね。人間も貴族も——」  男爵は沈黙していた。ピロンも、Dも。  門のところまで来て、レダが馬車を止めた。 「あたしたち、トロの町へ戻るわ。あそこで稼いでみる」 「達者でな」  と男爵が言った。Dは小さくうなずいたきりである。  べえ、とレダが舌を出してから、 「また会えたらいいわね」  娘はうつむいていた。Dへの言葉だったのだ。  Dの口もとが揺れた。笑ったのかも知れない。 「そうだ! これ」  ピロンが馬車の座席の下へ手を入れ、取り出した品を男爵へ放った。ここへ来る前、砂漠ハンターのところから取り戻してきた彼の皮鞄だった。 「行け」  レダがうなずき、手綱をふった。二頭立ての馬車は町の方へ走り出した。  レダの隣で、それまで黙りこくっていたピロンが立ち上がって、片手を大きくふった。 「またなあ、チビハゲ男爵とカッコいいダンピール」 「糞餓鬼」  罵った男爵の声も、なぜかか細く弱い。別れのときだった。 「行くぞ」  Dが促し、二人は反対側の方向へ歩み出した。 「言えんかったな」  男爵が固い声で言った。 「何をじゃ?」  と嗄れ声が訊いた。男爵は無視した。胸を占めているものが聞かせなかったのかも知れない。 「五千年前、ベグリイ公に、村の娘どもを拉致してくれと依頼したのは、このわしなのだ」  彼は何か言ってもらいたかったのかも知れない。  だが、答えるものはなく、道を行くダンピールと貴族の頭上に、果てしなく蒼穹は広がり、午後の陽ざしは神々しく照り続けているのだった。 [#改ページ] 第九章 被告席の貴族    1  トロの町を出て二日目は朝から雨になった。  平原の真っ只中で、雨宿りする術もない。サドル・バッグから取り出した防水コートを頭から被って凌ぐことになった。  それでも、風をともなった雨は顔を打ち、手を叩く。ダンピールの力を支える貴族の血も、雨には半減する。 「えーい、莫迦者め。天気予報ぐらい聞いておかんか」  と男爵はごちたが、三千年ばかり前に気候衛星に異常が生じてから、天気予報など、当てにならぬ最右翼だ。五分単位で快晴と暴走雨がチェンジする世界を、誰が予報できるというのか。 「えーい、何とかせんか。このまま行くと、わしの体力はあと一時間と保たんぞ。雨に溶ける恐怖を、おまえは味わったことがあるか?」  男爵の言葉は単なる嫌がらせではない。  直接雨に打たれずとも、こんな天気の下では、貴族のバイオリズムは大幅に低下する。体温は下がり、スタミナを失った筋肉は、跳躍力も移動スピードも半減させてしまうのだ。だから、貴族狩りをするには、雨の昼を狙う。 「我慢せんか」  と応じた嗄れ声もだるそうだ。 「じき雨は熄《や》む。それに後二時間もすれば、平原は抜ける」 「ふん、その前に歩きながら馬の上で溺死しとるわい。ほれ、ぴゅう」  尖らせた口の先から、水のすじを飛び出させるとは、この貴族、なかなかに道化者であった。 「そういう芸当は、ザッパラの移動裁判所でやれ。陪審員の同情よりも笑いを誘って、何の得になるか知らんがな」 「こうるさいぞ、この声色芸人め」  驚くべきことだが、男爵はいまなおDが嗄れ声の主だと思っている。 「ところで、こんな場合に物は相談だが」  男爵が馬上で揉み手をした。 「どうだ、このまま、わしをザッパラとやらへ運んでも、おまえの受ける報酬など微々たるものだろう。それに、ここ五日間も旅を共にして、少なからぬ友情も芽生えていると見た。その両方をわしが満足させてやろう。どうだ、ズバリ、千億ダラスで逃がそうと思わんか?」 「何が千億ダラスじゃ。尾羽打ち枯らしたへっぽこ貴族が。おまえの何処から千億ダラスなど出てくる? せいぜいポケットの埃カスじゃろうが」 「そうはイカのタマキン」  と、とんでもないギャグを口にして、大貴族はゲラゲラと笑った。すぐにDを睨んで、 「どうだ、これがギャグだ。なぜ笑わん」 「たいしたものだ」  冷たい鋼の声である。呆れ返ったあまりだろう。それでも男爵は満足したらしく、 「ふむ、まあよかろう。それより、返事はどうだ?」 「おまえの斬り落とされた首にキスでもしてやろう」  今度は嗄れ声である。  男爵は馬上で身悶えした。 「愚か者めが。真面目に考えろ。千億ダラスだぞ。えーい、二千億に上げてやろう」 「そんな金、どこにあるんじゃ?」 「ここだ」  パン、と皮鞄を叩いて、前にくくりつけた。 「ここにすべての切り札が収まっておる。出さぬわしに感謝せい。その気になれば、逃げ出すなぞ造作もないのだ」 「なら逃げてみィ。この口先貴族め」  激しい雨音を消さんばかりの罵声の連続に、 「明後日にはザッパラに着く」  と鋼の声が切りこんだ。 「そこで別れる。それだけだ」 「おおおまえには、欲というものがないのか、友情の美しさがわからぬのか? それでも貴族の血を持った人間か、それも——」 「それも?」  嗄れ声が訝しげに訊いた。 「いや——何でも」  と男爵はあわてて口を押さえ、 「とにかく逃がせ、逃がしてくれ。首など斬られるのは真っ平だ」 「なら、楔でどうじゃ」 「わああああ」  ほとんど恐慌状態に陥った男爵を、Dは静かに見つめていたが、急に、顔を後方へふり向けた。  わずかに遅れて、男爵も眼を向けた。この辺は貴族の血だ。  背後から幾つかの気配が近づいてくる。サイボーグ馬と騎手たちだ。雨音でわかる。三騎いた。 「何じゃ、これは……」  男爵の声は震えていた。雨のせいではない。気配から吹きつけてくる鬼気の凄まじさ。 「こいつら、何者——ひっ」  男爵が息を呑んだ。背後から来た影のひとつが隣に並んだのだ。 「今晩は」  陰々たる声がかかった。年齢《とし》は雨音に消されているが、男だ。 「こここここ」  男爵が一音を連続させた。一応、返すつもりだったらしい。  一人目は去った。  二人目が並んだ。 「今晩は」  同じく男だ。 「こここここ」  三人目が来た。 「どちらへ?」 「ザッパラへ」  Dが答えた。  騎手は馬の脚を止め、ふり向いた。先の二人も。 「これは……恐ろしい」  と三人目が言った。今度は判断がついた。女の声である。男爵が眼をしばたたいた。 「この世に、まだこんな気を放つ人間がいようとは——ザッパラの町は震えることでしょう」  雨が。  男爵はその音だけを聞いていた。現実が恐ろしくて。  気がついた。  騎馬は雨の彼方にかすみつつあった。  それが完全に溶けてから、 「あれは何だ?」  男爵が前のめりに、馬の首に抱きついた。精も根も尽き果てたのである。 「血と硝煙の匂いは雨も消せなんだな」  と嗄れ声が言った。 「あいつら、戦闘士じゃの。それも殺し専門の」 「ザッパラの町へ行くと言ってたじゃあないか」  男爵が、馬の首で震えながら言った。 「まさか、わしを狙っておるのではあるまいな」 「何じゃ、いまの殺し屋に狙われる覚えでもあるのか?」 「そそそそんなものは無い」 「なら、怯えるな」  嗄れ声は嘲笑した。 「もっとも、これまで見てきた限りでは、人間の怨みは五千年など屁とも思わんで残る。時を超えておまえを怨んでおる人間が、奴らを雇ったのかも知れぬな」 「ひええ」 「ま、安心せい。ザッパラの町まで行けば治安官もおる。裁判所のガードもおる。裁判がはじまれば、身の安全は確保される」 「終わったら、どうなる?」 「それも安心せい。どうせ、身の潔白が証明されて晴天白日の下に釈放されるなどあり得ない。そのまま獄舎か刑場行きじゃ」 「けけ刑場」 「どちらにせよ、もう首斬り役人の斧以外、おまえに手を出す者はおらん。気を楽にせい」 「楽にできるものか——わしは絶対にそんな町へは行かんぞ。ここで死んでやる」  何のつもりか、彼は自分で自分の首を絞め、ぐええと呻いた。  すぐにあきらめて、ヒイヒイぜえぜえ喘ぎ出すのを待ち、Dは馬の横腹を蹴った。  雨の彼方にザッパラの町が沈んでいる。そこに何が待つにせよ、黒いしなやかな体躯は、行くとのみ告げていた。  ザッパラは〈北部辺境区〉の中心から五〇キロばかり南の鉱山町である。規模としてはトロと等しいが、十数年前から廃鉱が増えて人口の移動がはじまり、いまでは約二千人と寂寥をかこっている。  町の入口に飾られた歓迎のアーチも錆びつき、男爵が、 「けしからん」  と毒づいたほどである。  Dは治安官オフィスの前で馬を止めた。 「わしはここで待つ。ゆっくりして来い」  という男爵の襟首を掴んでオフィスへ入った。  事情を話すと、治安官はじろじろと男爵をねめつけ、 「話は聞いてる。これが昼歩く貴族か」  と言った。 「うちの牢は貴族用じゃないんでな。済まんが、明日正午からの公判まで、君、預かっておいてくれんか。ホテルには言っておく」 「おれの仕事はここまでだ」  とDは言った。 「そうだ、そうだ」  と男爵がうなずいた。Dさえいなければ逃げられると思っているらしい。 「実は少々、厄介な状態にある」  篤実そうな治安官は、明らかに何かを企んでいる風な男爵を横目でにらみつつ、 「君たちの前に三人——凄腕の戦闘士がやって来た。ジェラード、パフ、ヴィーネといってな、殺しが専門だ。狙いはそこのチビ助らしい」  男爵が、ななな、と喚き、Dが、 「なぜ、わかる?」  と訊いた。治安官は眉を寄せて、壁の掛け時計を見た。 「言っても信じられんだろう。まだ昼前だ。あんたの護送費用と拘置手続きが済むまで、こいつを連れて、すこし町を歩いてこい。それでわかるだろう」 「もう関係はない。手続きが済んだ頃、戻る」  出て行こうとするDの後を、 「待て、わしも行く」  と男爵が追いかけた。  治安官の言葉の意味はすぐにわかった。  Dと男爵が板張りの歩道を歩き出すと、それこそ四方八方から、凄まじい憎悪の視線が集中したのである。  酒場のスィング・ドアの向うから、賭博場の窓から、路地の陰から、それは、刺された者がその場に倒れてもおかしくない悪意を放射して、男爵の首をすくめさせた。 「一体、何事だ? わしは人間から怨みを受ける覚えは——」 「無いか?」  とD。  男爵は忌々しげに唇を歪めた。  治安官のオフィスへ戻ると、男爵はすぐ説明を求めた。Dではない、男爵である。 「何だ、この町は? 町ぐるみ、わしに悪意を抱いておる。こんな所で正当な裁判を受けられるはずはない。開廷地の変更を要求する。どん!」  と、テーブルを叩いた。 「往生際の悪い奴じゃの」  嗄れ声がした。治安官が度肝を抜かれたようにDを見つめてから、 「すでに巡回裁判所は到着しておる。明日の正午に開廷だ。それまでホテルにいろ。周りは、おれの助手がガードする」 「ふむ」  男爵は少し安心したように額の汗を拭き、 「ところで、この町の人間の敵意の理由は何だ?」  と訊いた。 「五千年ばかり前、おまえはベグリイ公とやらに依頼して、この町の女子供を誘拐しようと試みた。それを拒んだため、町は焼き打ちにかけられ、千人近い人間が殺された。赤ん坊までな。この町は生き残った彼らの子孫たちでできている」 「………」 「中身の濃い町だの」  嗄れ声が感心したように言った。男爵は陰険な眼つきで何やら考えていたが、じろ、と治安官を見て、 「おまえの助手とは誰だ?」 「この町の人間だな」 「貴様は殺人鬼に人を守らせるつもりか? わしは一切認めんぞ! そもそも、貴様も一味ではないのか!?」 「おれはこの町へ呼ばれた人間だ。だが、おまえを守っている余裕はない。その色男にまかせよう」 「おれの仕事は終わりだ」  Dは壁から背を離した。 「護衛費用を貰おう」  男爵は狂気の眼で叫んだ。 「やめろ。おまえだけが頼みの綱だ。礼はする。見捨てないでくれ」 「気の毒にな。あの殺し屋どもは、どんな汚い手を使っても依頼を果たすと評判の輩だ。公判中も気を抜かんことだな」 「助けてくれ」  悲喜劇とでも評すべき情景を尻目に、Dの背が戸口に広がった。  男爵の叫びが追った。 「わしは“神祖”の居所を知っておるぞ」  闇が動くようにDはふり向いた。    2  結局、Dは男爵の依頼を受けた。 “神祖”のひと言が効いたのかも知れない。  意気揚々たる男爵をともなってオフィスを出、ホテルへとサイボーグ馬を進めた。  前方、五〇メートルほどのところにホテルが見えてきた。 「おかしなホテルだの」  と男爵が視線を飛ばして言った。 「さっきから見ておるが、下はレストランだ。なのに、誰も出入りせん」 「馬を下りて伏せろ」 「えっ?」  その腰に鋼の腕が巻きつき、次の瞬間、男爵は宙を飛んでいた。  着地した次の瞬間、もう一度飛んで歩道へ舞い降りる。  ホテルが爆発した。  よほど、熟練のプロが火薬の調整を行なったのだろう。跡形もなく吹きとんだ割りには爆風も少なく、Dたちのところへ降りかかった破片もわずかだった。 「何だ、あれは?」 「何じゃい、あれは?」  二つの声がDの近くで発せられた。どちらが誰かはいうまでもあるまい。 「脅しだな」  とDは言った。ホテルから逃げ出す者もなく、町民も一人として出てこない。すべて、打ち合わせの上で仕組まれた行為だ。 「脅し? そのために、ホテルひとつを吹きとばしたというのか?」 「怨みは深く、町ぐるみ、だの」  嗄れ声も呆れ返っている。 「宿はなくなった。治安官のオフィスへ戻るか」  Dがこう言ったとき、背後から、 「おい、兄弟」  と来た。  歩道を懐かしい顔が足早にやって来る。賭博場にでもいたらしい。  無毛のでぶ——頓《トン》とガリルのたくましい身体の間で、デリラの赤毛が燃えている。 「いきなりドカンと来たんでな。無事か?」  頓がぶくぶくと訊いた。 「何とかな」  Dの声は相変わらず素っ気ないが、何処かにぬくみみたいなものがある。 「おめえも無事だったか、チビハゲ貴族——よしよし、いい子だ」  頭を撫でようとしたガリルの手を、思いきり撥ねて、男爵は、 「おまえらのような不浄ハンターに触れられる覚えはない。下がれ下がれ、人間め」 「相変わらず威勢だけはいいわね、大貴族さん」  とデリラが投げキスを寄越した。 「あのホテルへ行くとこだったのかい?」  とガリルが炎と黒煙の館へ顎をしゃくった。 「そうじゃ」  と嗄れ声。三人ともぎょっとしたが、すぐに受け入れた。 「おれたちは昨日着いて、あれこれ耳年増してたのさ。どうやら、炎の中へ飛びこんじまったらしいな」 「海に沈んだ小さな国に、こんな諺があるらしいわよ。“飛んで火に入る夏の虫”」 「とにかく、あれは嫌がらせだな。泊まるあてはあんのかい?」  頓がにこにこ訊いた。 「向うにな」  Dの顔が向く方を見て、別の声が、 「治安官のとこか? 監獄なんて寝心地が悪い。おれたちのとこへ来な」  三人の仲間を押しのけるように、帝王《ミカド》が現われた。 「そこの酒場の二階もホテルだ。なかなかいい部屋だぜ」 「やめておこう」 「なぜだ? おれたちは客だ。ホテルの奴らに文句など言わせん」 「やめておく」  Dは歩道を下りて、サイボーグ馬に乗った。男爵が仁王立ちになって、 「やだ。わしはホテルがいい」  と駄々をこねるのを、一瞥する。  その眼光を浴びただけで、男爵はすぐシュンとなって、おずおずと自分のサイボーグ馬にまたがった。 「おい、裁判は明日だろ?——そのチビハゲを牢屋へぶちこんだら、一杯飲らねえか?」  誘ったのは頓である。 「ねえ、おいでよ。呑みっくらしようよ」  デリラも後に続いた。  すでにDは歩き出していた。二、三歩進んだところで、左手が上がった。  それが返事。  戦う男と女が見送る中を、Dと男爵は歩み去った。 「町中が敵か」  と帝王がつぶやいた。 「相も変わらず孤独な男だ」 「でも、それが似合う。血も凍る独りぽっちが、あの男よ」  デリラの言葉に男たちは一斉にうなずいた。  ガリルが妙にしみじみとした声で、 「そのとおりだ。だが、ああはなりたくねえな。死んでも、よ」  返事はない。うなずきもしない。そんな必要はないのだった。 「戻るか」  帝王がふり向いた。  そして、動かなくなった。  数メートル前方に、三つの影が立っていた。 「商売敵らしいな」  帝王がにやりと笑った。 「何の用だ?」  誰かが訊いた。  治安官が付き合ったせいか、オフィスに爆弾を投じる者もなく、Dと男爵は翌日を迎えた。  移動裁判所は、町外れのホールで開廷される。 「弁護士はつくのだろうな」  昨夜、オフィスへ戻ったときから、男爵はそればかりであった。 「安心しろ。裁判所付属の弁護士がいる。ただし、実力のほどは差があるらしいぞ。弁護士ならこの町にもいるが、一日千ダラスと高額だ。それに、貴族相手では、まず引き受けまい。特におまえは×《バツ》マークだ」 「ひええええ……すすると……」  治安官は首の後ろを手刀で叩き、同じ手を心臓の上あたりで握りしめた。 「ひええ、首をはねられて、心臓に杭か。ひええ……何たる確実な死であることか」 「ま、達者でな。裁判所までは護送車で送る。おれも同行するから安心せい。ま、そっちの色男がいれば、おれの出番などなさそうだが」  意外と物のわかる治安官であった。  巡回裁判所は、判事と検事、弁護人、書記、雑用係各一名で成り立つ。  通常はやって来た土地の訴訟を書記が受けて判事に伝え、原告と被告を検事、弁護人にふり分ける。  書記に申し立てする場合は、相応の物的証拠を付けなければならない。審理から判決までは一時間以内と限られているからだ。判決はこの証拠にかかっているといっていい。  今回の案件は、男爵に関する一件のみであった。  原告は、七千年前、男爵及び彼の依頼人の手によって拐《かどわ》かされた子供たちの家族[#「家族」に傍点]及び、その子孫。  証拠は五千年以前のビデオ・テープやRディスク、関係者の証言であった。  男爵及びその依頼を受けたベグリイ公その他の貴族の蛮行が、空中に映し出されると、ホールを埋めた傍聴人たちは沈黙し、ついですすり泣いた。議員、役人、銀行家、酒場の主人、賭博場経営者、ホテル業者、肉屋、パン屋、学生、剣術トレーナー、雑貨屋、古着屋、教師、主婦——どの眼も憎しみに狂っていた。  同じく傍聴席近くの壁にもたれたDの左手が小さく、 「こりゃあ四面楚歌どころの話ではないぞ。どうあがいても、死刑は間違いなしじゃ。どうする?」 「どうもしない」  とDは答えた。  どのような判決が出ようとも、戻された牢獄で“神祖”の行方は伝えると、男爵は約していたのである。 「次は奴の抗弁か」  嗄れ声の彼方で、弁護人が立ち上がり、ずっと嗄れた声で、五千年以上も昔には貴族といえども精神的な成熟には程遠く、その持つ残忍さを抑える術も知らず、また、当時の貴族と人間との関係からして、人間の中にも、それをやむを得ざる場合と認める者もいた。何とぞこの点を汲んで、情状酌量の上、人間として慈悲ある判決を望みたい、と陳述する。  白髪混じりでやる気もなさそうな中年の弁護人は、しかし、なかなかの雄弁家であった。  両者の言い分を聞き終えた判事は、男爵に向かって、最後に何か言いたいことがあるかと尋ねた。 「おおともさ」  と男爵は応じ、被告席から立ち上がると、凄まじい熱弁をふるいはじめたのだ。 「貴様たち、そもそも、このわしを誰だと思っておる。五千年前は、天下に隠れなき大貴族アルプルプ・マキューラ男爵様だ。確かに五千年以前、わしはおまえたちの先祖を拉致、誘拐した。それは認めよう。だが、その目的は、いま、おまえたちが推測したような、単なる吸血や破廉恥な性的欲求を満たすためではない。人間と貴族との間に、ある巨大なる可能性を求めてのものだ。さらった者たちは、もはや帰らん。それは認めよう。だが、わしは彼らの意志を無視したことなど一度たりとてない。わしは彼らのすべてに、偉大なる目的について語り、その上で、その身体を捧げてくれるか否かの選択をまかせた。嫌と言えば、すぐにも親元へ返すつもりであった。みな、受け入れてくれた。一人も帰らぬのがその証拠だ。彼らは幼い頭脳と精神《こころ》と魂でもって、わしの実験の主旨を理解し、協力してくれたのだ。つまり、このような裁判を開くこと自体が、わしのみか彼らまで冒涜することになる——それがわからぬのか、この愚か者どもめ」  最後の嘲罵が終わらぬうちに、銃声が轟き、男爵は胸を押さえてのけぞった。    3 「敵《かたき》だ」  と傍聴席の一人が、火薬銃を手に叫んだ。  ガードが駆けつけたが、今度は別のところで、同じような轟音が響き、男爵の頭部の四分の一ほどを持っていった。  その男も、敵だと叫んだ。  矢が風を切って男爵の腹を貫き、斧を持った男が飛び出したが、これはガードに遮られた。 「静粛に、静粛に」  判事が木槌をぶっ叩き、ガードたちも制止したが、暴徒と化した人々は席を立って男爵のもとへ押し寄せようとした。  雷鳴が咆哮した。  人々は凍りつき、暴徒から傍聴人へと戻った。 「静粛に」  大口径の二連長銃を天井へ発射したばかりの判事は、全員に着席を命じた。 「やるのお」  嗄れ声がささやいた。  その声が聞こえたかのように、判事はDの方へ顔を向けて言った。 「治安官の資料によれば、被告をここまで運んだのは君だそうだな。ガードも務めている。なぜ、いまの襲撃を放っておいたのかね?」 「銃は無効だ。矢は躱せる」  殺伐たる空気もざわめきも、闇の声に吸い取られた。 「それに判事がいる」 「ふむ、人を見る眼はあるな」  と判事はうなずいて、 「その人間離れした顔からすると、ダンピールか。でなければ、単身、貴族を護送などできまい。そこで質問だが、今回の件をどう見るかね?」  Dは立ち上がった。  ダンピールと聞いた瞬間、凍りついた人々は、恍惚と身を震わせた。彼らは、はじめてDの顔を見たのだった。 「弁護をするつもりはない」  とDは言った。 「何?」  腹の矢を抜く途中だった男爵が眼を剥いた。持っていかれた顔は、すでに九割方復元している。  Dは傍聴人席を見渡した。 「被告を敵と呼んだ者——誰の敵か告げろ」  冬の夜のごとき双眸が、最初に攻撃した男を貫いた。  男は沈黙した。 「次」  二人目は恍惚としながらも、記憶を探る素振りをみせた。たちまち肩をすくめた。 「次」 「次」 「次」  誰一人、名前ひとつ挙げられなかった。 「怨む資格のある者も憎む資格のある者もいない」  Dは淡々と告げた。 「怨みと憎しみがあるきりだ」  傍聴人席では、息遣いさえ絶えていた。  やがて、 「被告は有罪」  と判事は言い渡した。 「『都』の反物質大牢獄に懲役十万年——ただし、刑の執行は五年間、これを猶予する」  傍聴人席からのブーイングは、意外なほど少なかった。 「厄介なことになったぞ」  と嗄れ声がつぶやいた。 「極刑ならともかく、あのような軟派な判決では、逆に私刑《リンチ》を奨励しているようなものだ。いよいよ、来るぞ」  手続きを終えて裁判所=ホールを出たのは、閉廷から一時間後であった。  馬車に乗るとき、治安官が、 「運がいいのか悪いのかわからんな」  と声をかけて、男爵の肩を叩いた。  馬車は走り出した。Dと男爵の他に、治安官と二人のガードがいる。あとのガード二人は御者台だ。  五秒と空けずに、 「町とは逆だ」  とDが言った。  何!? と立ち上がった治安官の横の窓から、御者台にいるガードの顔が逆しまに覗いた。 「どうした?」 「おかしいんです。馬が勝手に——言うことを聞きません」  何か言おうとした治安官の肩にDが手をかけて制止し、 「この先には何がある?」  とガードに訊いた。 「何も」  きっぱりした返事である。ガードは引っこんだ。治安官が窓外を眺めて、 「馬は術にかけられた。飛び降りるか? 貴族なら無事だろう」 「このまま行こう」  話を聞いていた男爵が血相を変えて、 「何を話しておる。わしは飛び降りるぞ」 「降りても追われるだけだ」  とDは言った。 「決着をつけてしまえ」 「やだ」  なおも飛び降りかかるのを、引き戻して坐らせ、Dも隣に腰を下ろした。  十分ほどで馬車は停止した。荒野の真ん中である。黄土ばかりが蜿蜒と広がっている。  治安官が窓から顔を出して、 「何か見えるか?」  と訊いた。  返事はない。  Dがドアに近づき、 「出るな」  と告げて、黒い風のように外へ出ていった。  御者台に乗る。二人のガードはこと切れていた。傷はない。左手を顔面に当てた。 「毒だの」  と嗄れ声が告げた。 「しかし、飲み食いした様子はない。二人揃って麻薬中毒《ヤクちゅう》だったわけでもあるまい。どうやって服《の》ませたかだ」  そのとき、馬車のドアが開いて、ガードと治安官が地上に降りた。銃を構えて四方に眼を配る。 「よせ」  Dが叱咤するより早く、馬車の前方を見た治安官が、おっと声を上げて、火薬銃を構えた。  一〇メートルほど向うに、三つの影が落ちてきたのはこのときだ。  空中にいた、と全員が気づくより早く、三人は足から地面に激突——しなかった。  地上三〇センチほどで三人はぴたりと停止し、それからゆっくりと降り立ったのである。  治安官は頭上をふり仰いだが、飛行体のようなものはない。三人のうち一人以上が、飛行能力を持っているとしか考えられなかった。 「動くな」  と治安官が命じた。ガードたちも銃を構えている。 「おれはジェラード」  と、ハーフコートの男が名乗った。緑のマフラーで口を覆っている。 「おれはパフ」  平凡なシャツとズボンの男は、腰に武骨な山刀を鞘ごと差しこんでいる。 「私はヴィーネ」  頭から真紅のスカーフを巻いた娘であった。砂まみれ髭まみれの男たちに混じって、そのしなやかな肢体と可憐とさえいえる顔立ちは、悲愴でさえあった。 「仕事は殺しだ。その貴族——渡してくれれば何もせん」  治安官が火薬銃をふった。 「そうはいかん。三つ数える間に、両手を頭の後ろで組み、地面にうつ伏せになれ。さもなければ、射殺する。一つ——」  三人が顔を見合わせた。ヴィーネの口もとが歪んだ。笑ったのである。 「二つ」  ジェラードの右手がマフラーにかかった。 「三つ」  治安官とガードの銃火が三人の敵に集中した。 「いない!」  三人組のいた空間を貫き、反転した治安官とガードたちの視線が激しく揺れた。  喉を掻きむしるより早く、その口から鮮血を噴き出し、痙攣する身体は地面へ横倒しになった。  もうひとり——男爵ものたうった。その背後から空中に向けて白い針が打ち上げられた。  地上一〇メートルほどの空中に、確かにDは三つの影を見たのである。  だが、それは忽然と消滅し、白木の針は空気を貫いて消えた。  頭上から風が吹きつけてきた。  それを浴びた男爵が、またも血を吐いた。毒はその中に混入されているのだった。  Dは口もとを押さえて走った。  背後に気配。後ろ殴りに叩きつけた刀身が、硬い音と物体を弾きとばす。短剣は放物線を描いて荒野の何処かに消えた。  肩越しに見た。  三人は地上にいた。  その誰かが神速で移動し、一人が毒を吐き、一人が風を使ってそれを送り届けるのだった。  身をひねりつつ、Dは針を打った。  三人が消え、同時にDの背後で男女の悲鳴が上がった。  もつれ合いながら、三人が落ちてきた。バランスからして飛翔主はヴィーネのようであった。  その胸と腹から白い針が生えている。移動は背後か頭上——それも一〇メートル以内と、Dはこれまでのパターンを読み取っていたのだ。  ヴィーネは倒れた。血の糸が荒野に鮮烈な色彩を施した。  残るは二人。  死ぬ死ぬと喚く男爵の声を聞きながら、Dは突進した。  ジェラードの唇が尖った。  ごお、と渦が音をたてて巻いた。  錐揉み状態で空中へ持ち上げられていく。全身の骨がきしむ。肋骨が砕け、内臓を突き破った。口と鼻から鮮血を噴きながら、Dは針を放った。それはことごとく吹き戻り、Dの全身を貫いた。 「どうした、若造、ここが貴族の墓場だ」  ジェラードは笑った。喉仏さえ見える。それが突然、驚愕の声に変わった。別の風が顔面に叩きつけた。  眼を閉じ、ふたたび開いたとき、彼は見た。  彼の死の空気乱流を蹴散らしつつ突進してくる黒い蝙蝠の影を。コートの裾を魔翼のごとく羽搏かせるDを。  なす術もなく棒立ちになった頭部へ刀身が食いこみ、顎まで裂き割った。  三人目——パフは悲鳴を上げて逃亡に移った。その首すじを白木の針が貫いたのは、三メートルばかり走った後であった。  どっと倒れたパフを見届けてから、Dは前屈みになって血を吐いた。ジェラードの乱流には、パフの毒も混じっていたのだ。  長剣を地面に突き立て、Dは荒い呼吸を繰り返した。 「これは……凄まじい……毒だ」  嗄れ声が言った。 「わしまで……おかしい……パフとかいう奴……貴族の薬学を……身につけておる……な」  左手の平に顔が浮かんだ。それは苦悶に歪んでいた。 「だが……いずれ……治る。一時間ほどの……辛抱だ。横になって……休め……」 「そうもいかん」 「え?」  Dは直立した。  その眼の前を絹糸のようなすじが走った。雨だ。それはたちまちDの身体を煙らせる豪雨となった。 「うおお、弱り目に祟り目じゃ。こういうときは、とどめもロクでもないものが来るぞ」 「たまには、まともなことを言うな」 「ふはは、誉めるなよ」  嗄れ声は弱々しく笑ってから、 「早いとこ、男爵に“神祖”とやらの居所を聞いておけ。何か、嫌な予感がする」  刃を引き抜いて、Dは男爵の方を向いた。 「ふふふ」  わざとらしい笑い声が雨音に重なった。    4  男爵はその場に立っていた。いつ毒が抜けたのか。Dさえもすぐには治癒せぬ毒が。  右手に下げた皮鞄に、Dの視線が吸いついた。それは彼が治安官のオフィスに置いてきたはずであった。 「貴様……どうやって?」  呻く嗄れ声に、男爵はもう一度、ふふと笑ってみせた。 「まさか、いま[#「いま」に傍点]あいつが出張ってくるとは思わなんだ。Dよ、おまえはまだ奴には及ばんぞ。とりあえず、わしは自由だ。また会おう」  雨の紗が小さな身体を呑みこんだ。  Dは追おうとしたが、なぜか足が動かなかった。 「そうそう、奴の居所だったの。——大分前だが『都』の〈廃城区〉にいると聞いた。何も知らぬよりはマシだろう。気をつけて行くがよい。わしはこれから風呂とトカイの最上級ワインだ。二度とわしの前に現われんでもらおう。むはははは」  それきり、声も気配も途絶えた。Dはやや首を右へひねって、雨の彼方へ視線を注いだ。  数個の気配がやって来る。  やがて、それはDの前に一列に並んだ。 「無事かい、兄弟?」  馬上から聞こえる帝王の声であった。 「見届けに来たんだ。おれとデリラが賭けに勝った」 「よかった」  心底からの女の声であった。 「実はおれも、負けたらいいなと思ってたんだよ」  頓がとり繕うように言った。 「嘘こきやがれ」  威勢のいい返事は猿羽だ。 「用を言え」  とD。  この一団が偶然やって来たわけはない。見届けると言った以上、前のトリオと意を通じていたに違いない。 「それだ、いま男爵が消えただろ」  帝王は何となく済まなさそうに言った。 「それは、ある御方の力によるものだ。そして、おれたちも、ついさっき、ここへ来る途中、その御方に会った」 「ほう」  Dの左手のあたりで嗄れ声が雨に濡れた。 「ごめんね、D——あたしたちも、町の連中の依頼を受けちまったのよ。男爵とあんたを消してくれっていう」  堪りかねたようなデリラの声であった。 「けどよ、あくまで正々堂々とだ。小細工は使わねえって言ってやったよ」  猿羽が声をついだ。 「町の連中は、あの三人にも依頼をしやがった。おれたちの方が先だったんだが、順番を決めろと町長に言われて、おれたちが後になった」  声は帝王に戻った。 「さっきの話に戻る。おれたちは、あの方から力を貰った。あんたを討てるだけの力をな。その代わり、男爵はあの方が連れていくことになった」 「それでは報酬を貰えまい」  とD。町の者の狙いは男爵だったからだ。 「それも考えたが、ささやかな収入よりは、後まで残る力だと決めた。これで巨龍も、最高貴族も斃せるんだ」 「依頼人を裏切るか」 「そう言うなよ」  とガリルが消え入るような声で言った。 「来い」  Dの低音が雨を凍らせた。雨音さえ熄《や》んだ。その鬼気に怯えて。 「虫のいい言い草だが、せめて正々堂々とやり合いたい」  帝王の声に、雨の影たちがうなずいた。  嗄れ声が、 「後悔するなよ」  と言った。 「また会おう」  帝王の影が身を翻した。 「じゃあな」  と頓の声が言った。 「あばよ」  とガリル。 「さよなら」  デリラであろう。 「あばよ——兄弟」  猿羽の影が消えた。雨音の中を蹄の轟きが長いことかかって遠ざかっていった。  後に残るは——死とDだけ。  蒼穹に白い雲が子猫のように遊んでいる。  治安官とガードの死体をオフィスへ運び、まだ残留していた判事に事後処理をまかせた。医師が加わり、すべてDの言葉どおりと判断が下されたのは、三日後であった。  男爵の失踪は、すでに町中に知れ渡り、刺すような視線の中を、Dは町を去った。  三十分ほどで、前方に黒い森が迫ってきた。道は森の中に吸いこまれている。  不意にDが馬の腹を蹴った。  風を巻いて走った。  陽光が木漏れ日に変わった。  頭上から影が落ちてきた。  Dの頭上で銀光が交錯した。きぃんと澄んだ音が、左方の樹上へ吸いこまれる小柄な影を追っていく。反対側の木に縄を結びつけ、振り子のように躍りかかった敵は、それなりの効果をあげたようであった。  右脇腹から血を噴きながら、Dはすでに一〇〇メートルも疾駆している。影の武器が手甲鉤で、姿を消した梢から鮮血がしたたり落ちていることを、彼は知っているのだろうか。Dの一撃は致命傷を与えたのだ。  前方から一騎の騎馬が接近してきた。  長身より出っ歯が目立つ。だが、両手で長剣をふりかざした姿の勇壮さよ。  Dの手にも一刀が光る。  すれ違った刹那、ぎん、と硬い悲鳴を上げてDの刀身が半ばから折れた。  赤い糸を引きつつ、Dは走り去った。  ガリルの馬は止まった。  その首を右から左へ折れた刀身が貫いていた。彼は馬を止め、Dの方をふり返った。 「大したもんだ……達者でな……兄弟」  そして、第二の刺客は馬から落ちて動かなくなった。  右の脇腹はなおも血を噴いている。 「深いが、なに、すぐふさいでやる」  と左手が言った。 「放っておけ」 「何ィ?」 「次が来る」  突如、サイボーグ馬が仁王立ちになった。  横合いから出てきた塊が、足下を横切ったのである。  Dがふり落とされもせず、手綱にも頼らず両足だけで馬体をはさみ踏みとどまったとは、何たる足の強靭さか。  その頭上から直径二メートルほどの球体が躍りかかった。何と地上からかたわらに樹の幹を駆け昇り、樹上よりジャンプしたのである。  光るものが突き出し、間一髪、躱したDの左肩が裂けた。それを覚悟かひるみもせずにDは折れた刀身を叩きつけたが、刃は物体にめりこみ、難なく弾き戻された。  路上へ跳ね戻った球体は、ぽんと音をたてて、一刀を握った頓に姿を変えた。 「おれをただのでぶと思ったかい、Dよ? やりたかないが、勘弁しろ」  ぐん、と丸まり、球体と化す——その喉もとへ赤いすじが吸いこまれた。それは呆気なくぼんのくぼへと抜けた。  刃を跳ね返す肉の毬も、楔は受け切れなかったのだ。 「何たる奴——」  馬上で嗄れ声が、さも恐ろしげにつぶやいた。 「見た目ではわからんな」  ぐんにゃりと転がる頓を見つめてDが応じた。頓はなぜか笑っている。 「違う。おまえのことじゃ。何を武器にするかと思うたら……」  頓の喉を貫いたものは、いま、彼と——D自身の血にまみれていた。  脇腹の傷に手を差しこんでへし折った。白い楔は肋骨であった。 「あと二人——」  嗄れ声がやや疲れたように言った。 「——来おったぞ」  道の彼方に二騎の人馬が佇んでいた。  しなやかな影がまっしぐらに向かってきた。  デリラだ。  右手の剣技はすでにDは体験済みだ。すれ違いざま、安全な距離を取って攻撃をしてくるか。三メートルの見えざる刃を、いまのDに防ぎ得るか否か。加えて、デリラには、“あの方”の力が付与されている。  対して、Dの武器は折れた剣一振りのみ。  疾駆と疾駆が砂塵を上げつつぶつかり、その距離が来た。  次の瞬間、デリラは馬ごとぶつかってきた。  刃が閃いた。Dの左手が肘から飛ぶ。その白い頚部に折れた刀身が十分な強さと鋭さをもって食いこんだ。  なぜ、距離を取らずに突進してきたのか。娘の胸中を考える暇もなく、Dは最後の敵と対峙した。 「左腕がなければ、復活はできんそうだな」  と帝王は言った。両者の距離は五メートルであった。 「あの方に聞いた。だが、デリラにそう命じたわけではなかったが」 「父親のために、か」  帝王の顔に軽い驚きの波が渡った。 「知っていたのか?」 「眼のあたりが似ている」  帝王が眼を閉じ、すぐに開いた。  どちらからともなく、馬を下りた。 「おれがパワーアップして、やっと互角。だが、右手一本の男を相手にしては、娘や仲間に申し訳が立たん」  左腕を背中に廻すのを、Dは見た。 「これを使え」  Dの足下に小刀を放って、腕はまた背中に戻った。  Dは身を屈めてそれを掴み上げた。 「使わせてもらおう」  帝王はうなずいた。  二人の間を和やかなものがつないだ。そして、不可視の殺気が。  森が唸りはじめた。鳥という鳥が騒ぎ出したのだ。それは森のみならず、天地の怒号のように四隣を圧した。  徐々にそれは高まり、天へと噴出し——超新星のごとく四散した。  鳥という鳥が一斉に飛び上がったのだ。狂気の乱舞が虚空を染め、陽を閉ざした。  それも数秒——  鳥たちは飛び去り、陽光がふたたび道を白々と照らし出す。  二つの影——一つは倒れ、一つは立っていた。  その足下へ、細い影が這っていく。  立ち尽くす影がそれを拾って、左肘に付けた。 「ひとりずつ来たの」  と嗄れ声が言った。    『D—血闘譜』完 [#改ページ] あとがき  まずは遅れに遅れたお詫びと、その過程を少々。  本篇は本来昨年末に出るはずだったのですが、作者の個人的事情により挫折、それから新年、二月、三月、四月とどうも調子が出ない気も乗らずで、五月に堂々刊行となりました。ああ、良かった。  ——以上、お詫びと経過説明おしまい。  で、今回、どうしても語っておかねばならないのが、新登場人物Mクン(「あとがき」を先に読む人のために、特に名を秘す)です。実は作者は当然、アレするつもりでいたのですが、書いているうちに愛着が湧いてきたのと、人物設定が勿体ないのとで、結局、アレせずにコレすることになりました。喜んでもらえると嬉しいです。Mクン、またな。  次に本篇以外の“D”について。  色々とお話ししたいのですが、まだ本決まりとなっていないため、もう一年ばかりお待ち下さいませ。  ——以上、本篇以外の“D”について、おしまい(というのも、出し惜しみしている風なので、ちょびっと。翻訳、映画化、アニメ化——くらいかな)。  もうひとつ——講談社の文庫担当だった、確か中村という男が配置替えになりました。ああ、セーセーした。風俗へ行くときだけ燃えるオヤジでよ。  しかし、今回の“D”はしんどかった。次回はもっと頑張るゾー。   平成十六年五月某日   「吸血鬼の接吻」を観ながら    菊地秀行